※画像は本文参照

大変“ニッチ”な話題で恐縮だが、画像をみていただきたい。

参考

【ニッチ】
https://dime.jp/genre/1049224/

憲さんが生まれ育った船橋市習志野台の6丁目の習志野台団地の航空写真地図である。(憲さんの実家は隣の習志野台2丁目)

習志野台第2保育園の直下(南側)から1号棟、2号棟と並んでいるのだが、そこを拡大してみてみるとちょっとした違和感を感じないだろうか?

1号棟、3号棟、4号棟・・・とほとんど全ての棟がきっちりと水平に並んでいるのだが、2号棟だけが少し傾いて建っているのである。

何故か?

それを解明するのが今回の随筆のテーマである。

・・・・・・・・・

連休を利用して船橋市の実家に帰省した。

この大型連休、どこに行っても混雑しているだろうと、遠出を避ける。

そこで思い立ったのが故郷の歴史を学ぼうと実家からすぐ近くにある船橋郷土資料館に行くことにした。

参考

リニューアルオープン!「ふるさと船橋への愛着」を育む博物館
https://www.city.funabashi.lg.jp/funabashistyle/jp/002/p058740.html

ここは憲さんガキの頃からある施設だが、子供の頃に一回くらい入っただけでほとんど記憶がない。

薄暗い館内に船橋の沿岸部の海苔漁で使用されていた“べか舟”が展示されていたような微かな記憶があるだけだ。

もちろんリニューアル前である。

今回、リニューアル後の全部を時間をかけて見せてもらったが、結構ボリュームがあり充実した内容であった。

特に、特別展の「海辺の様子の移り変わり」における「船橋ヘルスセンター」の展示は大変懐かしく興味深かった。

参考

【船橋ヘルスセンター】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E3%83%98%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

そして、今回の憲さんがここに来た目的の一つは、憲さんの育った習志野台の歴史を学ぶことにあった。

以前の随筆でも触れたが、憲さんの育った習志野台はその昔(江戸時代)は小金牧の南端下野牧(しものまき)の一部であった。

参考

【小金牧】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E7%89%A7#/search

さらに明治になって陸軍の演習場となり、明治天皇の「篠原に習え」の一言により「習志野原」と命名されたのは有名な話である。

東軍贔屓の憲さんにとっては大変癪に障る地名である!

【習志野】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E#%E7%94%B1%E6%9D%A5

地名の由来-習志野編
https://tuboi.yu-yake.com/story/006.htm

【篠原国幹】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E5%9B%BD%E5%B9%B9

【明治天皇駐蹕之処の碑】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%A7%90%E8%B9%95%E4%B9%8B%E5%87%A6%E3%81%AE%E7%A2%91

因みにこれも今回学習したのだか、それまで「習志野原」は「正伯原(しょうはくはら)」と呼んでいたのだが、これは薬園台を開いた江戸時代中期の本草学者丹羽正伯(にわしょうはく)に因んでいる。

参考

【丹羽正伯】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E6%AD%A3%E4%BC%AF

史跡めぐり・下総薬園
https://www.city.funabashi.lg.jp/gakkou/0001/yakuendai-e/0003/p014538.html

習志野原は長く馬の放牧地であり、陸軍の演習場であった故に近代において宅地開発されるまでは人の生活がなかった土地である。

事実、憲さんの実家がある土地は台地上で、水の便が悪くさらに馬や人に踏み固められた土地であるから農耕には不向きであったようだ。

これも昔話だが、憲さんは母校習志野台第一小学校の外周土手の法面(のりめん)で子供の頃に馬の骨を掘り出したことがある。これはこの辺で飼われていた馬のものであると思われる。

なので習志野台には古来より人の生活の痕跡を留める神社仏閣がなく、さらには古代遺跡もない土地である。あるのは馬の骨ぐらいである。

これも余談だかこれに対して、憲さんの通った坪井中学校がある隣の坪井地区は昔から農耕、特に水田経営をしており古来から人が住み着いており、神社仏閣等も多数あり人の生活が存在していた地域であった。

参考

【坪井】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E4%BA%95

因みに憲さんの子供の頃は習志野台地区は宅地開発されていたが、坪井地区はまだ原野と水田が残っており、よくザリガニ釣りやカブトムシを採りにいったものであるが、今や坪井地区も宅地開発され昔日の面影をみることも出来ないくらいに変貌を遂げている。

参考

坪井の森と桑納川の記憶
https://kitanara-style.com/tuboi-kannougawa/amp/

【桑納川(かんのうがわ)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%B4%8D%E5%B7%9D

さらに因み話であるが、習志野台は「水の便が悪い」と書いたが、それは台地だからであり現在において習志野台には河川を見つけることは出来ない。

しかし、驚いたことにこれも今回調べてわかったことだが憲さんの実家近くには宅地開発以前には小川が流れていたというのである。

それが現在北習志野近隣公園となっているところにある子者清水(こわしみず)を水源として、船橋東郵便局、憲さんの母校習志野台第一小学校の東側の桜並木通りを現在船橋アリーナのある調整池まで小川が流れていたのである。

参考

【習志野原子和清水給水(ママ)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%92%8C%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%B5%A6%E6%B0%B4

子は清水・親は酒
https://www.city.funabashi.lg.jp/gakkou/0001/yakuendai-e/0003/p014552.html

特集:木戸川 番外編 駒込川の秘密
https://kitanara-style.com/komagomegawa-past/

※注 この子者清水の位置はウィキペディアでは「北習志野近隣公園の中にある菖蒲園が、子者清水の跡だと考えられる。」とあるが現地の解説板には3丁目3番地3号棟付近と書かれており、これは交番のある交差点に近くそれは500メートルくらい離れている。どちらなのかはハッキリしない。是非ともハッキリさせてもらいたい。

そして現在も船橋アリーナのある調整池からは駒込川が流れており、坪井ゴルフセンター辺りで坪井川と合流して、さらに桑納川(かんのうがわ)へと流れている。

しかし、この駒込川も現在の北習志野近隣公園=子者清水を水源として現在の調整池である「坪井谷」の底を流れる駒込川が流れていたのだ。

これはビックリ!

これについては1968年に習志野台に引っ越してきた憲さんには記憶がないが憲さんの両親はくだんの桜並木は大雨時には道路がよく浸水していたのを覚えているそうである。

これは低湿地であった谷底の小川の名残であろう。

と、習志野台は中心に坪井谷が侵食している低い台地であることが確認できた。(これは古地図でも確認できる)

そして、この台地は明治時代から敗戦までは陸軍の演習場の原野であることも確認した。

なので何ら史跡や名所旧跡等もないと思いきや!

これがあったのである!

それも国宝級の戦跡が!

それが今回のテーマ、「永久堡塁(ほうるい)」である。

「堡塁」とは、戦時において敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のことを言う。それひとつで小型の要塞となり、本格的な要塞は複数の堡塁を備えた。あるいは複数の堡塁を結んだ防御線が巨大な要塞を構成した。

参考

【堡塁】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A1%E5%A1%81

これは、大正期から昭和初期にかけての絵はがきに「習志野名所千葉県習志野永久堡塁」の一枚が残っているのであるから間違いない。

参考

【永久堡塁 (習志野)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E5%A0%A1%E5%A1%81_(%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E)

古絵葉書・習志野 永久堡塁(習志野名所)
https://besankosyashin.blog.fc2.com/blog-entry-602.html

そして、この施設のつくられた経緯を読んでこれまたビックリ!である。

まずはウィキペディアから抜粋する。

そこにはこうある。

以下、引用。

習志野原の永久堡塁は、千葉県船橋市習志野台に存在していた演習用の要塞構造物である。習志野名所の一つ。広く旅順港と呼ばれ親しまれていた。

詳細な造成年月日は不明だが、日露戦争後、難攻不落といわれた旅順の堡塁を模して習志野原(陸軍習志野演習場)内に造られた構造物である。日露戦争では、ロシア軍随一の要塞築城の権威といわれたロマン・コンドラチェンコが設計した強固な要塞によって日本軍は苦しめられ、多くの死傷者を出した。当時の日本にとっては欧州の最新の技術・手法が用いられていたロシアの要塞を分析し、その後の戦争に備え、実際に演習に活用することは戦略的に重要な意味を持っていたとも考えられる。実際に何度か演習が行われたとの証言がある。

構造物は「旅順港」、工事で盛り上げられた小高い丘は「203高地」の名称で呼ばれ、地域の子供達の格好の遊び場となっていたが、1962年(昭和37年)、日本住宅公団によって始められた習志野台団地の造成工事に伴い埋められることになった。船橋市はこの構造物の保存の意思を示していたが、高度成長に伴う住居確保の必要性は大きく、公団の合意は得られなかった。現在この構造物は船橋市立習志野台第二保育園周辺の地下に眠っている。

以上、引用終わり。

ここで、「日露戦争での旅順攻略作戦においては、ロシア軍の強固な要塞によって日本軍は苦しめられ、多くの死傷者を出した。」とあるがその様子が描かれている映画が『二百三高地』である。

参考

【二百三高地】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E4%B8%89%E9%AB%98%E5%9C%B0

新兵役の新沼謙治の演技が大変印象に残る映画である。

ヒロイン役の夏目雅子も美しい❤️

しかし、なんと言っても圧巻なのはその戦闘シーンである。

日露戦争当時の軍隊の白兵戦の様子が生々しく描かれている。

参考

映画『二百三高地』予告編集
(旅順の堡塁戦の様子も描かれている)
https://youtu.be/-SblnWNMaN4

そして、憲さん俄然この「習志野名所永久堡塁」に興味を持ったので調べてみた!

するとまず郷土資料館にあった書籍にこうあった。

以下、引用。

二〇三高地 (永久保塁)

浄水場北側の道を東へ行くとバス通りにでます。通りを横断した習志野台団地内に、二〇三高地要塞の模型がありました。日露戦争で二〇三高地の攻略は日本軍に多大な損害を与えたことで有名ですが、日露戦争後、再びこのようなことがあることを 予想して、この場所に設置し、要塞攻撃の演習をしたといわれています。
習志野台団地造成の際にはそのような遺跡を残すという発想はなく、一部取り壊したのですが堅牢にできていたのでそのまま埋めてしまったといわれています。残念ながらこの要塞全体の構造はわかっていません。団地の下に今も埋まっていることになります。

以上、引用終わり。

滝口昭二編著『滝口さんと船橋の地名を歩く』より
https://www.amazon.co.jp/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E8%88%B9%E6%A9%8B%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F-%E6%BB%9D%E5%8F%A3-%E6%98%AD%E4%BA%8C/dp/4845511932

さらに、船橋郷土資料館で購入した『薬園台の歴史 正伯物語』にはこの「永久堡塁」について詳しく書かれておりこれは大変貴重なので全文採録しておく。

参考

【薬園台の歴史 : 正伯物語】
https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000004338748-00/

以下(96ページより)

三、永久堡塁(二百三高地)

 習志野演習場の中に「永久堡塁」と呼ばれるものがあった。日露戦争の時日本軍が多くの戦死者を出した末に攻略した旅順港の要塞の模型といわれ、近隣住人からは「旅順港」と呼ばれていた。この堡塁に接して小高い丘が造られていてこれは「二〇三高地」と呼ばれ、やはり日露戦争の激戦地を模した物とさ れていた。私たちを含めて近隣に住む者でもこれを日露戦争の戦勝記念に造られたものと思っているものが少なくなかった。
 ところが「船橋市郷土資料館第四三回展示のてびき」に「軍人たちがここで演習を行っていました」と書かれてあった。これについて調べるなかで次のことがわかった。
 八千代市在住で騎兵第十五連隊勤務将校の経験を持つ浜野良光さんによると、この構築目的はやはり「日露戦争後にロシアの要塞の模型を造り、その後の情勢に備え戦略演習に使うため」であった(平成十年十月聞き取り)
 第二次大戦後習志野は農地として開拓され更に公団住宅が置かれて、全くその景観が変わってしまった。このような時の流れを経て、古くからこの土地に住んでいる者にとっても、どこに何があったかを見極めるのは容易ではなくなっていた。「永久堡塁」もその例外ではなかった。
 ところが幸いなことに、「永久堡塁」があった習志野原開拓当時八地区といわれた所に住み、開拓に努力されて現在は西習志野三丁目に在住の高梨正夫さんと、同じように開拓に努力された習志野台八丁目在住の戸石三雄さんの証言により次のように確認することができた。
「永久堡塁」は今も船橋東警察署の西近く、習志野台団地の東北隅の六-七-一号棟と六-七-二号棟の二棟の下にあるとのことだった。その周辺をいくつかの点から見た時、私たちも昔の自然の中の「永久堡塁」の景観がたしかにここだという確信を持つことが出来た。
 さらに前出の浜野さんからもう一つの証言を得た。
 浜野さんは昭和二十二年から船橋市役所に勤務されており、公団住宅建設に伴う「永久堡塁」の埋没に立ち合われたという。その時コンクリートの要塞は破壊されることなく「二〇三高地」の土をもって埋められたという。ただこのことは簡単になされたものではなかった。これを残そうとする市側と少しでも用地の欲しい住宅公団側との間で幾度も話合われ、結局「住宅確保」という時代の趨勢から、公団側に屈したというのである。

以上。引用終わり。

これを読んで憲さん大変興奮したね。

何故かって、なんと!憲さんの実家のわずか目と鼻の先になんと「国宝級」の軍事遺跡が土中に壊されることなく眠っているというのだからね!

戦跡マニアとしては興奮せずにはいられないでしょう!

この「永久堡塁」おそらく明治後期に建設され敗戦後もそのままにされ、憲さんが北習志野に引っ越してくる数年前の宅地造成時に土中にそのまま埋められて半世紀以上が経過しているのだ。

しかし、ここにチャンス到来である!

現在、建築から半世紀たち老朽化した習志野台団地は続々と建て替え工事が行われている。

そして、この「永久堡塁」の上に建てられた団地もそのうち建て替えをすることになるであろう。

その時がチャンスだ!

この2棟分は取り壊してこの国宝級軍事遺跡を是非とも掘り起こして船橋市が主導して「戦跡公園」に整備してもらいたい!

その名も「二百三高地平和記念公園」!

それも旅順要塞に模した「永久堡塁」の模型ともなれば絶対に新たな船橋の観光名所になるに間違いなし!

もしかしたら、国が乗り出して保存してくれるかもしれない!

絶対にやるべし!

是非とも習志野台在住、船橋在住の人たちは今から運動を起こすべきではないだろうか?

いや~!

習志野台の地から「反戦」を考える聖地ができることは絶対に素敵なことだと憲さんは考える!

前出の『薬園台の歴史 : 正伯物語』は続けて興味深い証言を載せている。

この、「永久堡塁」の工事を請け負った、古池工務店の初代古池安五郎の孫、古池しづさんの証言である。

参考

【古池建築事務所】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B1%A0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%89%80

これも貴重なので全文採録しておく。

以下、引用。

 日露戦争に大勝利をして、難攻不落といわれた旅順港の永久堡塁の実物六分の一という大きな堡塁が習志野原の西側、坪井木戸寄りに造られました。祖父、 安五郎が請負い、近郷の農家から、人夫を何百人も動員して昼夜で続けられての大工事であったという事です。夜は当時では珍しいガソリンエンジンの発電機が稼働すると、原っぱの為か、大きな音は私の家(薬園台※憲さん注)まで聞こえた由です。西側の原は立ち入り禁止で、家の裏手から原へ抜ける四番営の小屋の中も兵隊で一ぱいでした。この頃になりますと、軍部に技術本部審査部というのが出来て、現場と東京の連絡は私の家が事務所に当てられたということです。その当時の現場の写真が残って居りますが、安五郎が現場監督をして居ります。 (古池しづ)

以上、引用終わり

その画像はやはり船橋郷土資料館発行の『新版 船橋のあゆみ』に掲載されており、おそらく出来たての「永久堡塁」の前に立つ古池安五郎氏が小さく確認できる。

ちなみに、この古池安五郎の設立した古池工務店は前述した小者清水をコンクリート造りの軍馬の水飲み水槽にする工事も手掛けている。

この水槽は1931年4月に完成しており、この年は9月に柳条湖事件がおき、満州事変が始まった年である。

この水槽はおそらく二代目が手掛けたものと思われ、その画像は前出したウィキペディアの【習志野原子和清水給水(ママ)】に掲出されている。

この「小者清水」はもう破壊されてないのだが、これは是非とも北習志野近隣公園に復元させてもらいたいものである。

と、船橋郷土資料館で半日を過ごし、色々と資料を見せてもらい充実した一日を過ごせた。

そして、最後にその「永久堡塁」が地中に眠る場所を同定しなくてはならない。

そこで頼りにしたのがこのサイトである。

これはマニアなのだろうか?大変丁寧にその位置を探ってくれている。

こちら

永久堡塁がどこにあるのか推定してみた
http://usi.mods.jp/blog/archives/103

これはネットで入手できる過去の航空写真を駆使してその位置を突き止めている。

そして、結果は・・・

『薬園台の歴史 : 正伯物語』には「習志野台団地の東北隅の六-七-一号棟と六-七-二号棟の二棟の下にある」とあるが、厳密にはその大半が習志野台団地6-7の2号棟と3号棟の間に埋まっているというのが正解だろう。

少なくともそのような構造物を除去しないでその上に5階建ての建物の基礎を構築するのは当時の技術では無理だったのではないかと推察する。

しかし、凄い!

そして、このサイトの主はこう締めくくっている。

「また、習志野台団地の6-7-2が他の棟と異なり、若干角度が付けられているのはもしかすると堡塁を避けたから?・・・なんて考えると、なんだかわくわくしませんか」

いや~!

わくわくする!

っていうか、この2号棟だけが不自然に傾いているのは間違いなく地下に堅牢な「永久堡塁」があり少し傾けないと団地の基礎を打ち込めなかったと推測するのが妥当ではないだろうか?

大発見である!

そこで最後に現地に行ってみた。

それは子供の頃から通っており見慣れた何の変哲もない団地の風景である。(文末掲出画像参照)

2号棟をよく見るが地上からはその傾き加減がよくわからない。

そして、当然ながら何の史跡掲示もない。

せめて船橋市は遺跡の埋もれた位置を正確に調べて史跡の掲示板をたててもらいたい!

しかし、その地下に遠く旅順に模した「二百三高地」と堅牢なコンクリート製の「永久堡塁」が眠っていると思うと、俄然興奮してくる。

遠くには憲さんの実家の前に聳える給水タンクが見える。

参考

きたならのシンボル 給水塔
https://kitanara-style.com/143649391-html/amp/
(※まだ今はなき独身寮が建っている頃)

この団地の地中に眠る戦争遺跡の前に立ち、100年以上前に無謀にもロシアと戦争し斃れていった日本兵、そして同じく死んでいったロシア兵に思いを馳せ、そして今尚続くウクライナでの戦火が一日でも早く終結することを願って、憲さんの充実した一日は過ぎていった・・・。

いや~!

素敵な一日でした!

どーよっ!

どーなのよっ?

※この郷土資料館で仕入れたネタは他にもあり、できれば逐次書いていきたいと思っています!

※我が故郷船橋についてはこちらも参考に!

憲さん随筆
憲さん青春の地 船橋の想い出 その猥雑さがたまらない!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/09/post-3e5185.html