裁きは自分に返ってくる | 聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

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『勝利者』とは、この世の成功概念をはるかに超越した、この世の価値観に一切束縛されない、真の自由なる存在であり、天国へ入ることを許された者たちである。世でもてはやされる「成功者」の概念を遥かに超越した、「神の著書」聖書に基づく『勝利者』への道を共に歩もう。

 ”ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。”
 新約聖書 ローマ人への手紙 2章 1節

 今回はローマ人への手紙(ローマ書)2章から。前回からローマ書に入りましたが、筆記者であるパウロはこの書の前半の数章を使って「罪」の問題を扱っています。私たちが罪の奴隷から救われるためには、人間が神の前においては等しく罪人であるという基本的な認識からスタートする必要があるためです。これは、罪の意識に苛まれたり卑屈になるということではなく、先ずはそれに気付くことでその後の人生に光明が照らされるということです。

 さて、私たちは日常生活において、他人の悪い行いは目につくものですから、理由を挙げた上で他人の悪いところを指摘したりする場合があります。つまり「他人を裁く」のですが、冒頭の1節では「他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています」と指摘して、それを戒めています。自分が同じことをして罪を犯しているのに、それを棚に上げて他人を裁くのはダメであり、それが罪であるとさえ言っています。マタイの福音書の有名な「山上の垂訓」でイエス・キリストが「裁き」に関して同様の戒めを与えていることが思い出されます。

 ”さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。”
 新約聖書 マタイの福音書 7章 1節

 ここでいう「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」とは聖書の原理原則を表してもいます。つまり自分が他人にしたことは全て自分に返ってくる、という原則です。善を行えば善が返ってくる、悪を行えば悪が返ってくる、裁けば裁き返される、ということです。

 ちなみに、パウロはローマ書1章において一例として人間の罪を具体的に以下のとおり列挙しています。

 ”彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。”
 新約聖書 ローマ人への手紙 1章 29-31節
 
 他にも挙げればきりがないのですが、過去の自分を振り返ってどれにも当てはまらない人はおそらくいないと思います。等しく神の前では皆が罪人である、とされる所以です。だからパウロは「さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」と言ったのです。

 ここで学ぶべきポイントは、「裁くのは本当は自分ではなく神である」ということです。他人をどう裁こうと、神はその人に罪があればその人を裁いて罪に定めます。つまり、神は平等に全ての人を裁くので、神の前においては自分が他人を裁いたところで実は無意味である、ということに早々に気付く必要があるわけです。

 他人を裁くことは、神の裁きに加えて自分自身をも裁いて罪に定めるという意味においては、自身の品性を著しく傷つけることにもなりますので厳に戒めるべきです。今回の記事を読まれた方は、この新しい気付きを得たわけですから、今後はもし他人を悪く言ったり裁いたりする気持ちが生じた時には、聖書の言葉と、いつでも神が見ている、ということを思い出して、裁きを思い留まることをオススメします。

 今回は裁くことの罪について学びましたが、罪の問題からはこの他にも多くの気付きや学びを得ることができますので、今後も機会があればポイントを押さえて取り上げていきたいと思っています。このような聖書=神の言葉から得られる気付きと学びによって悔い改めることを日々のライフスタイルで積み重ねていくことで品性と器(うつわ)が整えられていき、自身のライフスタイルそのものが良い方向へ導かれていくというのが、まさに聖書を通した「神による矯正=最高のコーチング」の神髄といえるものです。聖書には、私たちがより良い人生を送るために必要な豊かな知恵や悟りがまだまだ沢山秘められています。聖書から学ぶことをオススメする所以です。

 聖書によって皆様に神からの最高に豊かな知恵や悟りが与えられますようお祈り申し上げます。