罪の問題の解決へ向けて | 聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

『勝利者』とは、この世の成功概念をはるかに超越した、この世の価値観に一切束縛されない、真の自由なる存在であり、天国へ入ることを許された者たちである。世でもてはやされる「成功者」の概念を遥かに超越した、「神の著書」聖書に基づく『勝利者』への道を共に歩もう。

 ”なぜなら、福音のうちには神の義(正しさ)が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”
 新約聖書 ローマ人への手紙 1章 17節

 実は先週、遅めの夏休みを頂きまして、現在私は北海道の最北端である稚内に住んでいるものですから、宗谷海峡をはさんでさらに北の隣国であるロシアのサハリンに渡航していました。そのため、前回の分の記事を1回分だけお休みしたことをお詫び申し上げます。ちなみにサハリン旅行の記事については追って別の機会にご紹介したいと思います。

 前回に予告したとおり、今回から「手紙シリーズ(いわゆる「書簡」)」に入ります。冒頭はその最初を飾るの「ローマ人への手紙(通称ローマ書)」の第1章からの一句となります。

 新約聖書の「4つの福音書」と「使徒の働き」は、まだイエス・キリストと福音(=罪からの救い)を知らない人々に対して、キリストと福音とは何かを伝える書であると位置づけることができます。一方、これに続く「手紙シリーズ」はすでに信仰を得た「クリスチャンのための教科書」と位置付けることができます。では、クリスチャン以外の方々にとっては手紙シリーズは無意味なのかといえば、私はそのようなことはないと思います。なぜなら、人がなぜ罪からの救いを本当に必要としているのか、そしてそのためには私たちがどのように変わっていかなければならないのか、について教会における問題点を事例としてより詳しく具体的に知ることができるという点において、有益な気づきや悟りを与えることができるのではないかと考えるからです。

 手紙シリーズの最初の書であるローマ書は、使徒パウロが当時の教会に宛てた書簡(手紙)として記述した書です。「使徒の働き」では使徒たちがイスラエルから始めて福音を広め、最後にパウロががローマに到着して福音伝道を始めるところまでを記録していました。キリストの受難からしばらく後にローマに教会が出来て、それが世界中に福音と聖書が伝わる起点となったのですが、ローマ書はそのローマ教会のクリスチャンたちに宛てた手紙です。直接的にはローマ在住のギリシャ人やローマ人などのいわゆる「異邦人(ユダヤ世界から見た外国人)」に宛てたものですが、その位置付けとしては「クリスチャンの学びの基礎課程」といったところです。ですから、前半の数章を割いて改めて「罪」について語っています。それは人間が救われるためには、神の前では全ての人が罪人であるという自覚からスタートする必要があるからです。すでに信仰に入って救われたクリスチャンであっても、この基本中の基本について忘れることのないようにとのパウロを通した神の気遣いと配慮が伝わってきます。

 さて、冒頭の17節ですが、ここに福音=罪からの救いを得るために必要となる「神との関係性」の本質が凝縮されて表されています。神の義(=正しさ)は私たちに信仰=神との信頼関係を結ぶことをまず最初に基本として求めている、ということです。その神への信仰が基本となって福音=救いへと導かれる、ともいえます。よって罪からの救いの過程としては、先ずは罪への自覚があり、次に神への信仰が芽生えて、続けて信仰に基づく神による義認(正しいと認めること)があって救いへと至る、となります。パウロがローマ書の前半で罪について論じるにあたり、神との関係性にあえて言及したのは、キリスト出現以前にユダヤ人たちおよびパウロ自身をも支配して苦しめていた「宗教的戒律としての律法制度」の限界と破たんへの反省が念頭にあったものと思われます。その失敗事例には罪を負ったままの人間の抱える問題点と悲劇とが実に良く表されていたと思います(それを最初に鋭く洞察して指摘したのがイエス・キリストであったわけですが)。信仰に基づく救いの福音とは、その宗教的律法の束縛からの解放と同時に、長い歴史の中で人間を苦しめてきた罪の問題からの解放を意味します。

 そもそも神の前において罪の無い人間はいません。罪の問題に一見無関心に見える人でも、人間は神による被造物であるがゆえに、心の奥底のどこかで神の存在を無意識ながらでも感じているものです。ですからいつも罪意識を抱えていて、悪い行いを重ねる度に良心の呵責に苛まれたりするわけです。聖書によれば、人間の重ねる罪は創造主たる神によって全部覚えられていて、死後にその重ねた罪に応じて裁かれるとあります。

 ”そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”
 新約聖書 ヘブル人への手紙 9章 27節

 よって人は深層心理では神による罪の裁きへの恐れをどこかで感じているというのが実情です。その裁きへの恐れを解消するためには罪の問題を解決する必要があります。ところが、罪が赦(ゆる)されるかどうかは全て神の御心次第であり、聖書に基づけば罪の許しには神の前で「義と認められる(正しいとされる)」ことが必要なのです。

 しかし、これがそう容易なことではありません。旧約聖書の時代には、神がモーセを通して与えた「十戒」という神の掟を守ることを証として義と認められるとされており、これがいわゆる「律法」の考え方です。しかし、人間はそもそも罪の性質を持って生れて来る生き物なので、どう頑張ってみたところで、神の前に完璧に罪の無い正しい行いを貫き通せる人などいません。それが2000年前当時にイエス・キリストにより徹底的に糾弾されたところの、パリサイ人らによる偽善と形式主義とを伴った「宗教的戒律としての律法」が現れた背景であって、行いによって証を立てようとすることの限界でもあり、前述のとおり「失敗事例」と表現した所以です。旧約聖書の中でダビデが断じて語っているとおりです。

 ”(神の前に)善(義)を行う者はいない。ひとりもいない。”
 旧約聖書 詩篇 14篇 3節

 人は神の掟を守るという「行い」によっては決して神の前に義を立証することはできない、ということが古代イスラエル社会における律法への対処とその破たんによってあきらかになったとき、父なる神が「子なる神」イエス・キリストを救い主としてイスラエルに遣わしたのです。そしてそれは偽善や形式だけの「行い」ではなく、「神への信仰(信頼関係)」によってのみ罪からの救いがあるのであって、その信仰を証するために父なる神から遣わされた唯一の「仲介者」がイエス・キリストである、というのは聖書にあるとおりです。

 ”神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
 新約聖書 
テモテへの手紙 第一 2章 5節

 新約時代以降の神への信仰とは別の表現で言えば、神の御子イエス・キリストを信用上の担保として神との信頼関係の契約を結ぶことです。この契約では、神が自らの御子であるキリストを私たちの罪を精算するための犠牲の生贄として人間の肉体を伴って世に遣わして、そのキリストが十字架上で流した血が私たちを罪の滅びから贖い出す(=神が代価を支払って私たちを罪から買い戻す)ための代価となる、ということです。そしてその救い主たるキリストへの信仰を表明することをもって神からの信任を得る、すなわち「キリストが神との信用関係の担保となる契約を結ぶ」ことになり、神は私たちがキリストへの信仰という契約を結ぶことをもって生前に積み重ねた負いきれない罪を、契約上の担保であるキリストを通して見ることで無罪と判決してくれる、という実にありがたい約束なのです。救いとは神から一方的に差し出される「恵み」である、といわれる所以です。

 これがつまり、
救い主キリストを信じる信仰によってのみ神の前に義と認められ、その結果として罪の赦しを得て救われる、ということであり、それをパウロは冒頭1章17節において「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」と言い、さらに旧約聖書の言葉を引用して「義人は信仰によって生きる」と言ったわけです。

 ”見よ。彼(罪人)の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人(義人)はその信仰によって生きる。”
 旧約聖書 ハバクク書 2章 4節

 「罪」は長い歴史の中で様々な諍いや犯罪や国家間の戦争などの悲劇を生んできた人間の不幸の根源です。罪の問題は決しておろそかにできないことなのですが、多くの人々はその基本的かつ根源的な問題の根深さに気付いていないというのが現状であろうと思います。だから、聖書では繰り返し罪の問題を扱っていますし、クリスチャンの基礎課程とも言えるローマ書においてさえも、パウロが先ず最初に罪の問題を大きく取り上げているのです。一見どうにもならないと思われている私たち人間の抱える罪の問題に対して、明るい光を照らすことができるのが唯一キリスト・イエスだけであり、そのキリストへの信仰を表明することだけが神に義と認められる条件であって、私たち自身の人間的価値や良い行いにはよらない、それゆえに「恵み」なのです。

 ”ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに(私たちの人間的価値とは関係なしに)義と認められるのです。”
 新約聖書 ローマ人への手紙 3章 24節

 その救い主キリストを証する書がいま私たちが取り組んでいる聖書であるというわけです。これからローマ書を紐解いていく中で、皆様とともに罪の問題に向き合っていくことができれば幸いに思います。


 聖書によって皆様に罪の問題への気付きが与えられますよう祈り申し上げます。