読者の皆様
日本の夏の蒸し暑さを懐かしく思う今日この頃です。
わたしはいま演奏会形式のアイーダのアモナズロ役として劇場で稽古しております。本来ならば、ロッシーニの小ミサ曲のソリストとして今月末に歌うはずでしたが、マチェラータ音楽祭の日程とどうしても合わず、断らねばなりませんでした。税金を納めたあと、できればひとつでも多くオペラないしオラトリオを歌いたかったが、ソリストとして本音をもうさば、ロッシーニのこの室内楽的な美学と、アイーダのスペクタクルの美学を、ふたつながら用意するのは、あまり望まなかったかもしれません。
また今月前半はコンサートが2つありました。
ひとつは市から要請されたオフィシャルな演奏会で(マイク越に歌わねばならない、と市役所からはじめ言われたのでしたが、自前のマイクを持参することで何とかそうならずに済みました、、、)軍楽隊のラッパのあと、夕暮れ時の丘の上で国歌と「行けわが想いVa,pensiero」を歌った時は、この共和国の苦境とそれを乗り越えるさまを思い、じーんときたのでした。
もうひとつのコンサートは、普段劇場でいつも歌っている同僚たちと企画し、やはり市から助成金を頂いて、市のホールで行った演奏会で、何も制約を受けずにヴェルディとプッチーニのアリア、それからカヴァッレリア・ルスティカーナ重唱を歌いました。
合唱団はふだん劇場で歌っているCoro Citta Futura。ふつうは、市からは、ペーザロ市でもあるので、1曲はロッシーニを入れてほしい、などといわれるが、、、。ペーザロ市の聴衆はオペラを愛するが、わたしがふだん歌うエミリア・ロマーニャ州や、あるいはヴェネタ、トスカーナといった地域とは好みが違うように思う。が、この声を存分に堪能する演奏会を気に入ってくれたように思え、なんと同プログラムで、かつ2倍の助成金で11月も行われることに。
さて、アクートのコツ第2回、今回は 「置く」 についてです。
置く(Appoggiare)はイタリアでは極めて重要なテクニックとされています。
この記事の中ではAppoggioを理論的に技術をつきつめてゆくのではなくアーティスティックに、コツとして書いてみましょう。
まず言葉通りに、この置くを考えるならば、Appoggioはポジションと結びついてます。ポジションとはつまり歌っているときの声の置き場所。
このポジションは、移動したほうがいい、という考えと一定である、という考えがあり、ポップスは基本的には前者、オペラは基本的には後者です。これがなぜオペラは後者でないとならないかは、オペラの歴史から述べねばならず、またオペラの劇的本質から述べねばなりません。ので、ここではカットです。
ただ、ポジションが一定であるというオペラのルールを守るにしてもまだ問題はあります。その一定のポジションはどこであるべきなのかという問題です。特に、この記事でも問題に上がる高音に有利なポジションは?
ポップスでは、あるいはふつう歌唱というときの、高音のポジション、もっとも自然なポジションは頭の上の高いほうとされ、しばしば後ろ側であるとされ、それは自然ともいえます。
にもかかわらず、イタリアでは特に、アッポッジョは低く、また前に、あることを求められます。
これは、ある種の先生からは、批判もあるでしょう。
だがオペラでは、少なくともロマン派のイタリアオペラではそうあるべきで、
偉大なオペラ歌手たちの証言もそれを裏付けるものです。
置くということについて一歩、深く学んだのはトスカーナ州、リヴォルノの劇場で給付学生として学んでいたとき、
声楽理論としてベルティングという技術に関し、講義を受けた。驚くべきことに、これはポップスやジャズでもっぱらもちいられる技術用語。
ただし、ポップスやジャズでは、それは胸声、地声、に関する考察であるが、オペラ歌手にとっては、この技術は高音へのヒント、特に、女性のソプラクートへのヒント。
【自然に考えて、地声や、胸声とされる声の、置き場所はどこですか?
そこがつまり高音においてもっともオペラティックな意味で理想の置き場所】。
そこに置くためには喉頭と横隔膜について学び、パッサッジョでのそれらの操作をメカニックに学ぶ必要があるが、
それは無論、時間のかかる学びであるだろうが、まず頭で以上のことを理解し、ゴールを明確にすることはわたしは有益と考えます。
たとえば、わたしは、ティート・スキーパの弟子であるAnna Maria Bondiから、言葉を唇の上に置き、それを息で前に送る、と、彼の言としてアドヴァイスを頂いた。それはあまりにシンプルで、マグダ・オリヴェーロに言わせれば、シンプルだが「やってみると難しい」。
それは、このテクニック、つまり喋るポジションに置くことは、喉頭や横隔膜の操作なしには難しいからです。
やってみればわかるが、無理にここに置いて高音を歌うならば、それはたんに前に押した声になるわけです(注)。
なんであれ、劇場で理論的に学んだこと、あるいはスキーパの 話すポジションに置く というインスピレーション的なアドヴァイス、
こうした知識と学びは、オペラで高音を歌うときにはじっさいに直接役立ったのでした。
ともかくわたしは声楽人生10年を通して、高音とは一種の低音、第二の低音であるということを学んでいった気がします。
同時にまた、高音を第二の低音にする操作としてのギアチェンジ(喉頭と横隔膜での)、を学んできたとも言えます。
生徒諸君および歌手のクライアントの方々には、
わたしの提示するACUTIの5度のヴォカリッツィが有用なようです。
また10度のパッサッジョからアクートへの移行に特化したヴォカリッツィも、高音を置く、ないしは置きなおすことへの学びにつながっているようです。それは同時にこれらのヴォカリッツィでは音域拡大も図れることを示しています。
割と重要なことはポジションを保持するためにちからではなく横隔膜でバランスをとることです。
ちからをいれ固めれば常に最善のポジションで歌えるような気がしますが、それは初歩的なミスです。
それはじぶんでシフトレバーをセメントで固めてギアチェンジを不可能にするようなものです。
では、シリーズ最終回、吐き出す、をお楽しみに。
ほぼ書きあがっていますから、8月第1週目にお届けできるでしょう。
では。
(注)しかしこれはつまり、前に押した声には、それが喉に悪いということを度外視するならば、何か正しさも含まれていることも、逆証明しているように思われる。