読者の皆様、

世界の中でも日本はコロナ騒動からは一歩抜け出た印象があります。

いっぽう、イタリアでは、オペラ歌手は誰もがそうであると思いますが、わたしもいくつかの公演がキャンセル・延期となりました。

キャンセルされたのはロッシーニの宗教曲と、愛の妙薬、の2作品、延期になったのは、今晩、ファブリアーノ市立劇場で歌われる予定だったリゴレット、それからアイーダです。

まあ、正直、愛の妙薬とロッシーニのミサ曲は乗り気ではなく(わたしはベルカントのレパートリーは外したので)、

熱望していたヴェルディの2作品はただ延期になっただけであるので、よかったです。

今晩のリゴレットは10月に延期され、次回、この劇場に戻ってくるのは5月のトスカになります。

↓ファブリアーノ市立劇場

今回は割と、みなさんからも質問の多い事項であるが、カヴァーについて、です。

 

カヴァー、イタリア語ではコペルトと呼ばれるこの概念は重要です。

カヴァーとは文字通り、かぶせる、ということ。音に被せる、ようにすること。

カヴァーしないといけない、と、いわれたことがみなさんも多いことでしょう。

そのとき、みなさんはどう実施するのですか、唇、あご、などを使い、声ないし母音をまるめるようにするのでしょうか。

 

さいきんもわたしの生徒が音楽院で 高めの中音域まではアぺルトで歌いそのうえからはカヴァーしないといけない といわれたそうです。

それはどういうことなのでしょうか、そして具体的に、その、高めの中音域から上は何をしないといけないのでしょうか。

カヴァーしないといけない、と同じくらい、アぺルトになってはいけない、という

なぜなってはいけないのか、

イタリアでは、逆に、アぺルト、ということばが大切。たとえば喉をあける(アプリーレ)は最重要のこと。この先生にいわせれば、パッサッジョから上はもっと喉はアぺルトでないといけない。ではこの先生は、パッサッジョから上は、コペルトすること、には批判的なのか?

つとに最近でありますが、アぺルト・コペルトという言葉も定着してきました。あるいは、合衆国では、Open Coverd Soundなどとも呼ばれる。

アぺルトとコペルトは両立しないといけないのか、あるいは、そのバランスなのか?開いた喉とカバーされたサウンドは両立可能あるいはそうしないといけないのか?

謎は深まるばかりのように見えます。

カヴァーすることさえ、謎なのに、

開いた喉でカバーされた音だよ、あるいは、コペルトしアぺルトだよ、などといわれたらば、もはや、混乱の極みでしょう。

 

定義としては個人的には明快になっているぶぶんがあり、

第一に、カヴァーすることは、喉頭を下げることです。

これはわたしが何とか導き出した答えでもなんでもなく、

わたしがパリで指導教授にあたってくれたイタリア人の先生は言いました、コペルトとは、喉頭を下げることである、そしてパッサッジョを過ぎるときに喉頭を下げるのである、と。こうして、響きを中低音から高音にかけて均一にするのです。

 

そして、その反対概念、アぺルトとは、ふたつの意味をもち、ひとつは開いた喉、もうひとつは、純粋な母音のことです。

つまり、喉頭をさげる、ということと、両立可能なばかりか、むしろ、お互いに補うもの。開いた喉でなく、喉頭だけ下げるならば響きを失い、

開いた喉というだけであるなら、高めの中音域からはそこだけおっぴろげな、飛び出した音になってしまう。

 

喉頭をどの程度、どのタイミングで使うかという問題はあるが、ともかくもカヴァー・コペルトとはそのこと。

 

いちおう、書かねばならないこととしてカヴァーということと母音修正というものがあります。

これは密接な関係にあり、わたしがフランス留学中、パリ音楽院のドイツ人教授は母音修正とデックング(ドイツ版のカヴァー)は同義語である、と述べました。

しかし、これは正しいアドヴァイスであるが、注意が必要です。

つまり、何をもってしてこの母音修正を行うかということ。

その母音修正は、喉頭でなされねばならず、唇やあごでなされる母音修正ではいけない。

これはデリケートな問題ですからレッスンで直接述べますね。

 

では次回、軟口蓋の謎、をお楽しみに!