読者の皆様、フェッラーラというエミリア・ロマーニャ州の都市におります。昨夜、フェッラーラ市立劇場にデビューしました。音大生のとき、クラウディオ・アバド指揮のたくさんの録音・録画を通し、ここで歌うことを夢見たが、こうしてわたしもソリストとして記録上には残ることにはなった次第です。明日に2公演目があります。↓フェッラーラ市立劇場

2月も多くのオペラ公演を控えておることを幸運に思います。

いまフェッラーラのカフェ、エステ城の背中を眺めつつ、紅茶を飲み、この新しいシリーズを始めようとしております。

題して声楽上の5つの謎と題し、マスケラ、軟口蓋、アッポッジョ、、、などに関し、書きたいと思いますが、 ここでは発声の常識と言われ、常識の範囲内では結論が出てることではあると思うのだが、いまいちど俎上に載せ、考えなおしたいと思います。

そうはいっても、常識ではこういわれているが、真実はこうである、というような断定的物言いの記事にならないよう、注意したいとも思います。

明らかな誤解は恐れず切り捨てつつも、いろいろな可能性を考える記事シリーズになれば、と考えております。


第一回目はマスケラに関し、いまいちど書いてみたいと思います。


マスケラとは極めて重要でしかも微妙な問題です。

 

マスケラを学ぶことは最重要、しかしマスケラに関する知識のあやまちで、あるところで行き詰っている人も多いのではないでしょうか。

わたしは一年間、ベルカント唱法にフォーカスを当て、この歌唱法だけで歌おうとしていた時期があり、このとき、マスケラ「の上に」声を置いて歌ったのでした。

結果、いろいろわかることも多かったが、歌えるようになったか、というと、声が軽くなった上に、高音の響きを失い、また声が疲労するのが早くなった。

つまり、これは、オペラ歌手の採用する方法論としては、限定的なものである、ということ。

 

ポジティブなものとしては、マスケラの中から声が出発し、外へと声が抜けていったときに、これまでに感じたことのない歌う喜びを感じ、また、歌いやすくて、しかも、歌ってるほうにも聴いてるほうにも双方感じる、自然さ、のびやかさ、がある歌になり、音楽院のクラスでも、急に褒められるようになったのでした。


ただし、肝心の、オーディション、コンクールに通らなくなったのでした。

 

打開策としては、じぶんがこれまで学んでいたメロッキ派の方法論に再度、戻り、イタリアで訓練を積みなおした結果、

ベルカントのよいぶぶんと、メロッキ派のよい部分が結びついて、なかなかよい感じになったのでした。

そして再び劇場の世界に戻れて、1年ぶりにル・アーヴルでオペラを歌い、パリオペラ座の試験のなかで初めてのエージェントも付いた。

それが2010年末で、このブログを書き始めたのもその時期。

だが、1年の浪費(と、言うことを恐れない)のなかで、ふたつの真実を学んだことになった。

ひとつはマスケラの上、マスケラのなかで歌うことは、あるいは高すぎる場所に声を置くことはオペラ歌手としての道としてはアブノーマルであること。

第二に、しかしながら、ベルカントの目指す歌の、伸びやかさ、抜けた響き、には、至らなければならないこと。

というわけで、マスケラという概念を、間違ってつかんでいたことになるのだが、では、どういう意味でのマスケラが正しいのでしょうか?
たとえばVoce di mascheraという概念があります。

これはどういうものか、どういうものであるべきか、なぜ正しいのか?検証してみましょう。


事実、わたしはマスケラは共鳴版であると習った。音大受験時代もそう習い、いま最も偉大な劇場で歌う歌手もそう述べております。

 

マスケラの響きとは?多くの方が述べるように

鼻腔共鳴のことだろうか?しかし、舞台で試してみるならば一発でわかるが鼻のあたりでつくる共鳴は飛んでいかない。やわらかい、温かい音ではあるが、劇場では散る声。

いっぽうマスケラの上に載せ前に歌うと(それがわたしが一年試したベルカントの方法だが)散ることはないが、お腹で頑張る割には、軽い。このような声が、オーディションではよい結果に向かわないことは記した通り。

オペラにおいては、強い響きが喉から出てないといけない。

従って正しいマスケラの声とは、喉で作られた声が骨をたどってマスケラに来ている声、しかないと思われます。

わたしは、生徒に買ってもらう本として、「はじめての」喉頭が下がり頸椎にくっつくことで骨全体を鳴らす。


さて、次に、重要な問題として、どこがマスケラかを検証しましょう。わたしはどう思い直しても二箇所、マスケラとして習った。ひとつは硬口蓋、前歯から頬骨にかけてのゾーン、もうひとつは額、顔面上部のゾーン。


わたしがメロッキ派でこここそがマスケラであると教わった場所は、頬骨、ようするに骨である。純粋なイ母音を歌うとそこが鳴る。共鳴装置としてのマスケラとはここ。

フランチェスカ・パタネは響きは、マスケラでつくられる、と、ペン先でわたしの硬口蓋の頂点(軟口蓋と硬口蓋の境目当たり)を突いた。彼女に言うところのマスケラはここにある。


しかしチェドリンスはここに共鳴装置があると述べ額を指さし、ここに声がこないといけないと述べた。


つまり歌手によってもマスケラの場所はまちまちな印象を受けます。

しかし、健全に考えるならば、喉頭をうまく使い、結果、口蓋にも額にも響く声であるべきで、そのときは骨に響いたクリアーで金属的な声であるかと思います。


が、わたしが思うに、真の意味でマスケラを絶対的に意識しないといけないのが呼吸法の分野です。


まず先に、わたしは一年ベルカントを学んだ時期、声はマスケラから抜けていくとき、いちばん気持ちがいい、と考えた。

これは、半分、大正解。
結論を急ぐなら、わたしは、声の抜けがいい、ということと、空気まで抜けてしまう、を混同していたのでした。

そして、わたしは、声楽人生でもうひとつ重要なことを学び、それはマスケラで空気を遮断すること。

ここでいう場合のマスケラは額を指してなく、

フランチェスカ・パタネは響きは、マスケラでつくられる、と、ペン先でわたしの硬口蓋の頂点(軟口蓋と硬口蓋の境目当たり)を突いたが、彼女に言うところのマスケラはここにあり、こここそ、マスケラで空気を遮断する、場所。


響きがきれいに抜けていく場所は顔面上部、からであるべきで、空気がそこで遮断される場所は、鼻のうしろであるべきである、ということもできますでしょう。

鼻のうしろで空気を閉じる、というアイデアを教わったのは、2013年、リゴレットのマスタークラスで、リゴレット役を歌っていた時に、アルトフ=プリエーゼ女史から頂いたアドヴァイス。

彼女は、貴方は鼻の中で歌っているが、空気をコントロールして鼻のうしろで歌わないといけない。そして、鼻をつまんで、息を吸ってとめ、水に潜る前の動作はこうだが、歌う前もそうだ、と述べた。

これは、たいへん衝撃を受け、さっそく、リゴレットの役づくりに、この発声法を試したが、

まず第一に、シンプルに喉から音を安全に取り出せるようになり、このオペラで5000回くらい出てくるファの高音が、危なげなく、きわめて安定したのでした。

外に向かってたたきつけるような音ではなく、なかから(つまり喉を)まるくあけたような、やわらかくて深い、楽な高音になったのでした。

これはなぜかというと、空気が上で遮断されたため、おなかをつかったそのぶんだけ、楽に安全に喉をあけられるようになったため。


二度目の衝撃は、2016年、アルバニア国立劇場の「椿姫」で、同劇場のディーヴァ、エヴァ・ゴレミという偉大な同僚と歌い、「歌ってるときは鼻を、手を使わないで閉じる」、とアドヴァイスをいただいた。
2017年にもアルバニア国立劇場の「リゴレット」にモンテローネとして参加し、そのとき
彼女は無償でレッスンしてくれ、大きな収穫でした。

というわけで、マスケラという概念がよりすすみ、かつ、呼吸法において不可欠な概念になったのでした。


マスケラで空気を遮断できると、ものすごいメリットが二つあり、ひとつはおなかを開放できること。それは楽というにとどまらず、おなかを表現・役作りに全て使えます。

もうひとつは喉を開放できること。これも言うまでもなくあまりに大きいメリット。


わたしのようなメロッキ派で学んだものは、空気というものは喉頭をうまく使うのならば適切に肺のなかに保たれると学んできた。ある程度までそのとおりです。しかし、当然だが、喉頭「だけ」で空気を肺の中に保とうとするなら、喉にりきみが生まれてしまうし、りきんでいれば、喉をあける、というたいへん重要な項目に支障をきたす。


だがマスケラで空気を保つにも、あるデメリットがあり、それは、ちからで保っているわけではない分、さまざまなバランスというか、歌い口も含めて、保つ必要があり、それは、すぐ崩れやすい、ということです。
ちからで密閉するのは、シンプルだし、かんたん。だとえば、おなかを下に押して空気がでない状態を作ることはたいへん簡単。

自転車を漕ぐのは肉体的にはきついがシンプルであり、車を運転するのは体はきつくないがより注意が必要。それと似ています。

断定的な物言いは避けたい、と文頭で述べた割には、これ以上ない断言的な記事になり、謎、というよりも、答え、に近い記事になってしまいましたが、面白く読んでいただければ嬉しいです。では次回記事をお楽しみに!