わたしは幸運な歌手で、2015ー2017年はもっぱらマスカーニ、プッチーニという例外的に素晴らしい作曲家を劇場で演じさせていただき、2017-2018年はたて続けにヴェルディの役を演じることができた。マスカー二はその生誕100年祭でマスカーニの聖地ゴルドーニ劇場でロドレッタのバリトンの主役を歌った。また素晴らしい「イリス」をカヴァーではあるものの3か月間劇場で働き、カヴァッレリア・ルスティカーナは欧州でもっとも演じた回数の多いオペラになった。

 

今日はマスカーニという作曲家を語ろう、しかしながらマスカーニという作曲家は、しかしカヴァッレリア・ルスティカーナと、ロドレッタと、イリスではまったくスタイルが異なる。少なくとも、ヴェリズモのもっともイタリアらしい旋律の神様、、、、のような面もあるし、コスポリタンな、デカダンスな、文学的な作曲家という風にも語れる。ビゼーのような親しみやすい作曲家と、ベルリオーズのような衒学的な面を兼ねているようにも思える。カヴァッレリアは前者、イリスは後者の傾向で書かれる。

いちばん問題にされるべきは、ヴェルディのように管弦楽パートがその作曲家人生のなかで発展しているということ。

こういう場合に問題になったのは「ロドレッタ」と「イリス」。

オケがたんに分厚いとかいうだけでなく、オケが何をしてるか分析して歌のパートを考えなくてはいけない。

たとえば、じつに最近まで関わってた仕事であるが、「イリス」の管弦楽パートは完全にヴァーグナー的。

強靭なヴァーグナー的バスバリトンの声を要求していて、似た声としてはスカルピア。

が、要求される声の響きの強さだけではなくて、問題はこのうねる管弦楽にうまく乗るという指揮者の要求にどうのるかである。

当然、単に指揮者に従って、シンプルにオケに載ればいいのだろうが、、、管弦楽にうまくのろうとばかり考えると、パッサッジョがあいまいになり、声がすっぽぬけたように軽くなるのだ。言い方は変だが、ミュージカル的になる。

レガートで歌うこと「そのもの」はかんたん。

だが、「ロドレッタ」のバリトンのアリア( バスティアニーニの素晴らしい録音がある )などで、名旋律をガーーーーっと歌いあげられたなーというときは、案の定、同僚から 「半分の声しか出てなかった」 といわれた。さらにいえばプッチーニよりも二割増しで自己主張しがちなマスカーニのオケがもしtuttiで一緒に弾いたりすると、声量豊かに歌ってても、響きが混ざって埋没する。これが、つまりリハーサル室では声量豊かに聴こえた歌手が聴こえなかったりする理由。

いっぽう、一音一音に向き合って、しっかり劇場に深く中低音を響かせられたなというときは指揮者にとってお荷物な歌手になってしまってたり。(じっさいリハから公演にかけて1人の歌手が、音楽とあわない理由でカヴァーと交代したのをみてた)。

、、、一音一音をあるべきポジションを意識して歌うことはレッスンでは大事である。一番大事かもしれない。

しかしマスカーニというかヴェリズモ特有の流れるようなうねりがないと、それはもうプロジェクトの破壊。

語弊はあるが、響きを伴わない演歌でもいけないし、全く演歌でないのもだめだ。

指揮者が求めるレヴェルは思いのほか高い、つまりコレッリみたいな流れの中で最大級に響いた声である。

たとえば、音から音へ、いちいち息を使いなおすような歌い方をすることは、ヴェルディでは悪くないというかむしろ必要なこと。

ヴァーグナー的ともいわれる「オテッロ」なんか、むしろそれがないとヴェルディに聴こえないということ。

 

プッチーニよりもある意味では難しく、場合によっては響かせることに有利なのは、しばしばマスカーニでは声はオケと対抗して声を出す傾向があるということ。これはヴェリズモというよりも、マスカーニのとった表現主義的な手法(ベルクのような)。

だが、案外、こういう場合は、オケに載って歌いあげるような場所よりも簡単。なぜなら一音一音をしっかり考え抜いて、結果、断音的になったとしても、慎重に、しかも効果的な大声量で歌うことができるため。オケを分析して、ぜひともそう歌える場所をあなたのパートでさがしてみよう。

 

最終的にはギリギリセーフで「ロドレッタ」も「イリス」も、上手くあいだをとり、というか呼吸の仕方をうまくし、指揮者の打点にうまく間に合うように歌うようにし、何とか劇場での業務を終えることはできた。

アリアの歌いあげるパートは、はた目には歌いあげてるような感じで、しかしながら内実としてヴェルディ的な一音一音をあるべき響きにもってく、というところに落ち着いた。つまり、実は、レガートで歌ってないが、管弦楽にうまくのれる歌い方。

よく指揮者を見ることと、横隔膜をその棒に合わせることで達成できた。

つまり、レガートという問題が劇場で歌うものにとってはかなり最後の課題。

音楽院とかでベッリーニの歌曲をまなぶときは鼻でそれこそ鼻歌で歌うことをレガートと学ぶものの、劇場ではその温かくて丸いレガートらしき声はすべて砕け散る。それも劇場で歌えればの話だが。

 

結局マスカーニを語るといってテクニック論になったが、

リヴォルノの海風とかもめの鳴き声のなかで2年間、海辺のソクラテスのごとく哲学的に考えたことは、もっぱら声のことだったと告白せざるを得ない。

ほんとうは名演出家ヴィヴィアン・ヒューイットと語り合ったマスカーニとイリスの関係性のこと、素晴らしいカヴァッレリアを演出したアレッシオ・ピッツェックのマスカーニ観( わたしはかれの演出の元ヘンゼルとグレーテルでバリトンの主役を歌ったときに、かれのマスカーニ観を参考にした  )など、それからじぶんが読んできたさまざまな読書、特に象徴派の文学作品の読書体験が、このマスカーニの音楽の中で再び光を当てられ、あらたに色彩豊かに輝いたか、書きたい気もしたが、それはじぶんのための雑誌として、心の中でじぶんで楽しむことにしよう。