以前「私、友達いないんで」と言われて、悲しくなったことがある。


私は彼女と友達になりたかったからだと思う。
まだ、知り合ってからの期間は短く、友達と言えるほどお互いを知らなかったけど。
私自身は友達になるのに時間は関係ないと思っている。
彼女のことが好きで親しくなりたかったから、「友達」だと、認めてほしかった。

でも、そういうことに意味を見いだす人とそうじゃない人がいる。

言葉によるカテゴリー化よりも、現実の関係性を重視する人。

 

お互いの関係が充実していれば、なんて呼ぼうがかまわない。


人によっては、もともと他人との距離を一定に保ち、近づけない人もいる。

限られた人しかパーソナルスペースには入れない人。



人との関係に名前をつけてカテゴリー化することは意味がないのかもしれない。

 

「彼氏」「恋人」「友達と」「知人」「家族」「親戚」「先輩」「後輩」



相手との関係ができていれば、そこに名前をつける必要もないし、信頼しあっていればそれでいい。

 

私がそこにこだわってしまうのは、ただ単に自信がないから。

関係を言葉にすることで安心したいんだと思う。

私とあなたは友達だよね。
私とあなたは恋人だよね。
私とあなたはただの職場の同僚だよね。

あなたは私のことを大事な存在と思ってくれているよね。



そうすることで線引きがしたい。

近い存在。
親しくなりたい存在。
近づいてほしくない存在。
自分のものにしたい存在。

自信のなさからくる私の欲望。

私をあなたの近くにおいてほしい。
特別な一人に加えてほしい。

私を大事に思ってほしい。
必要としてほしい。

私は自分に自信がないから。
相手との関係性で自分の価値をはかろうとしてるんだろう。

人は嘘をつくし裏切る。
また、そうされるのがこわい。
でも、あなたのことが好き。
だから、私をあなたの近い存在と認めてほしい。
あなたにとって必要な存在だと認めてほしい。

だから「友達」と呼んで。

「友達」と認めて。

自分自身が「私」という存在を受け入れられれば、価値を認められれば、相手にそれを求める必要なんてない。

私は私をまだ認められない。


卑下している。
「私なんて」という気持ちが消えない。

自己否定することで、自分の価値を下に置くことで、自分を保っているのかもしれない。

 

そこから下はないから。

 

裏ぎられるのが怖いからもう信じないとか。

不幸になるのが怖いから、幸せと感じたくないとか。

 

そういう後ろ向きな姿勢。