まず、現代教育の問題点をあげます。(あくまでも個人的見解です)
一つ目は、答えが一つなので、それ以外の答えは間違いとされる点。
ダメだしされたり、間違いだとか馬鹿だとか言われて嬉しい人間はいないでしょう。
異質な者は排除される、という考えにも繋がります。
二つ目は、暗記がメインで、自ら考える力や想像力や決断力が育たない点。
単にやり方を覚えてそれを応用するだけ、ということが多いです。
応用する際に多少考えますが、それは量をこなせば自然に見えてくるものです。
計算機があって辞書や本に載ってるなら、無理に覚える必要はないでしょう。
興味あることなら自然に覚えますし。
だから、勉強しても面白くないのです。自分で考える習慣がないといざという時、すぐに挫折したり道に迷ったりしてしまいます。
三つ目は比較競争意識をあおり、協力する心や認め合う心が育ちにくい点。
順位の上位が良くて下位はダメだとなると、お互い比較して醜い争いが起き、上下関係や優劣意識が出て、上の者は傲慢になりがち、下の者は自己卑下しがちです。
そんな価値観の人間だらけになったピラミッド型の世の中に住みたいですか?
だからって「競争はやめよう」と運動会でみんなで手をつないで一緒にゴールとかって変な平等はどうかと思います。
個性の違いを認めていないことや比較が問題で、競争や順位が問題ではないのです。
四つ目は、理不尽な決まりを押しつける点。
自分達が腑に落ちない決まり事を押しつけられても反発する者は必ず出てきます。
そして怒られ、ドロップアウトする者が出ます。
校則などもそうですが、さっきのゴールの話も押しつけられたら違和感しか残りません。
以上のような問題があるため、非行やいじめや学級崩壊などが起きてしまいます。
では、どういう教育がいいのか。
まず答えが一つではない、誰にでも考えられる問題を出すこと。(こんな時君ならどうする等)
そして、それぞれが考えて出した回答を尊重し、認め合い、否定しないこと。
最後にみんなで話し合い、納得のうえで代表の回答を決め、決まったことには従うこと。
いかがでしょうか?
そうすれば、四つの問題点はクリアされると思いませんか?
実は薩摩の「郷中教育」はそういうものだったのです。
もちろん、もっと奥が深いもので、町にいるいろんなスペシャリストにその日だけ先生になっていただくとか、誰もが先生にもなり生徒にもなり得るものだったようです。
権威主義の象牙の塔にいる偉ぶった先生に机上の空論を教わるより、ずっと生きた教えを学べたはずです。
西郷さんの講演会ではそのあたりの具体的な話が出てくると思いますのでお楽しみに。
私はこれからの社会で大事なのは、「許し」と「フラット意識」だと思っています。
お互いを比較して非難、批判しあうのはやめましょう。自分に対してもです。
完全な人間などいないのですから。長所短所をどちらも持っているのが人間ですし、皆それぞれ違う経験をしに生まれてきてるのですから。
そして、命の価値、人間としての価値は誰もが同じです。役割の違い、個性の違いがあるだけで、優劣などないのです。
西郷さんは自分軸を持ちながら、それを無理に押し通すことなく、いい考えがあれば受け入れたり、自説を引っ込めて下がることのできる人でした。
そして、「罪を憎んで人を憎まず」の広い心の持ち主であり、
それぞれの考えを尊重していたからこそ、「自分がいいと思うことをやればよい」と言っていたのです。
なぜ西郷さんが皆に慕われたのかがわかる、いろんなエピソードば、今後の人生に素晴らしい影響を与えてくれます。
昨日4月に西郷さんの講演に誘ってくださった東先生とも話したんですが、イエスの愛の教えには、理想であって現実には無理だと思われることがいくつもあります。
でも、西郷さんはそれを実際に実践された方です。クリスチャンではなかったと思いますが、真理に到達したら同じなんでしょう。
そして、絵空事ではなく、実際にできることなんだと認識することが、不可能を可能にします。
だから多くの人に聴いて欲しいのです。
直接口伝で受け継がれた西郷さんの生のエピソードを。
人間はここまでなれるんだと思えることが大事なので。
参考までに、答えは一つじゃないとは現代教育ではどういうことが考えられるでしょうか。
ちょっと書いてみます。
まず、国語。
この時の著者(主人公)の心境や気持ちは? これは何を表現している?
などという問題がありますが、正解は一つとは限りません。
著者が読者の自由な解釈を許してる場合があったり、実は一般的な回答が間違ってる場合があるからです。
特に詩や歌詞や短歌や俳句など短い文章はいろんな解釈ができます。
私は石川啄木の
「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」
について、啄木の友人だった方経由で聞いた真相を昔教わりましたが、それはとても学校で教えられる内容ではなかったです。(なのでここには書きませんが、セクシャルな内容です)
それなのに、きれい事が正解とされています。
だから、そんなウソの正解を求めるのではなく、感想や想像を出させればいいのです。どれも主観的な意見ですから間違いとはされません。
そしてその中からグループごとの代表回答を出させるのです。
そうやって意見をまとめていくのです。決して押しつけではなくそれぞれが納得したうえで。
でも、数学の計算結果は一つでしょう? って声もあろうかと思います。
確かに数学的には
1+1=2
ですが、こんなのは計算機でやれること。
もちろん基礎的学習は必要だと思いますが、すっとそれが続くとつまらないです。
でも実際の生活や自然の中では、
1+1=2とは限りません。
コップ一杯の水に砂糖を入れて溶かしてもやはりコップ一杯の水に変わりはありません。ただちょっと甘いだけで。
1+1=1という答えだって実は正解なのです。
だから、
1+1=1となるのはどんな時?
だと、いろんな答えが出せます。
さっきのコップと砂糖以外でも、絵の具を混ぜて別の色を作る、一つになる、子供を作る、コラボで一つのワークショップを行う、カマキリのメスに食べられるオスなどなど。
あと、純粋な数学であっても、
1+1の答えを求めるのではなく、
答えが2になる式は?
とした方がいろんな回答が考えられるので、生徒も楽しいと思います。
いずれにしても、異なる答えでも否定されずに正解となるので、答える方は自由にのびのびと想像力を働かせて楽しく勉強できます。
否定されずに尊重されるというのは嬉しいものです。だから楽しくなります。
この「楽しく」というのもポイントです。
楽しいからこそ続けられるのです。時間を忘れて没頭できるのです。
それが今に生きることになります。
そんな素晴らしい教育方法が、過去の日本には存在したのです。
「温故知新」
本来の自分、本来の教育、本来の世の中を取り戻すヒントが学べますので、
ぜひ、西郷さんの話を聴きに来てください。超お勧めです。
一度聴いた私が保証します。
ひ孫の隆夫さんは今年の27時間TVにも出演して、西郷さんの話を披露していましたが、来年の大河ドラマが「西郷どん」なので、いろんなところからひっぱりだこです。
だから、4月にオファーしたのに、タイミングが合うのが12月9日しかなかったのです。
鹿児島在住の方ですから、またとない機会ですよ。
一つ目は、答えが一つなので、それ以外の答えは間違いとされる点。
ダメだしされたり、間違いだとか馬鹿だとか言われて嬉しい人間はいないでしょう。
異質な者は排除される、という考えにも繋がります。
二つ目は、暗記がメインで、自ら考える力や想像力や決断力が育たない点。
単にやり方を覚えてそれを応用するだけ、ということが多いです。
応用する際に多少考えますが、それは量をこなせば自然に見えてくるものです。
計算機があって辞書や本に載ってるなら、無理に覚える必要はないでしょう。
興味あることなら自然に覚えますし。
だから、勉強しても面白くないのです。自分で考える習慣がないといざという時、すぐに挫折したり道に迷ったりしてしまいます。
三つ目は比較競争意識をあおり、協力する心や認め合う心が育ちにくい点。
順位の上位が良くて下位はダメだとなると、お互い比較して醜い争いが起き、上下関係や優劣意識が出て、上の者は傲慢になりがち、下の者は自己卑下しがちです。
そんな価値観の人間だらけになったピラミッド型の世の中に住みたいですか?
だからって「競争はやめよう」と運動会でみんなで手をつないで一緒にゴールとかって変な平等はどうかと思います。
個性の違いを認めていないことや比較が問題で、競争や順位が問題ではないのです。
四つ目は、理不尽な決まりを押しつける点。
自分達が腑に落ちない決まり事を押しつけられても反発する者は必ず出てきます。
そして怒られ、ドロップアウトする者が出ます。
校則などもそうですが、さっきのゴールの話も押しつけられたら違和感しか残りません。
以上のような問題があるため、非行やいじめや学級崩壊などが起きてしまいます。
では、どういう教育がいいのか。
まず答えが一つではない、誰にでも考えられる問題を出すこと。(こんな時君ならどうする等)
そして、それぞれが考えて出した回答を尊重し、認め合い、否定しないこと。
最後にみんなで話し合い、納得のうえで代表の回答を決め、決まったことには従うこと。
いかがでしょうか?
そうすれば、四つの問題点はクリアされると思いませんか?
実は薩摩の「郷中教育」はそういうものだったのです。
もちろん、もっと奥が深いもので、町にいるいろんなスペシャリストにその日だけ先生になっていただくとか、誰もが先生にもなり生徒にもなり得るものだったようです。
権威主義の象牙の塔にいる偉ぶった先生に机上の空論を教わるより、ずっと生きた教えを学べたはずです。
西郷さんの講演会ではそのあたりの具体的な話が出てくると思いますのでお楽しみに。
私はこれからの社会で大事なのは、「許し」と「フラット意識」だと思っています。
お互いを比較して非難、批判しあうのはやめましょう。自分に対してもです。
完全な人間などいないのですから。長所短所をどちらも持っているのが人間ですし、皆それぞれ違う経験をしに生まれてきてるのですから。
そして、命の価値、人間としての価値は誰もが同じです。役割の違い、個性の違いがあるだけで、優劣などないのです。
西郷さんは自分軸を持ちながら、それを無理に押し通すことなく、いい考えがあれば受け入れたり、自説を引っ込めて下がることのできる人でした。
そして、「罪を憎んで人を憎まず」の広い心の持ち主であり、
それぞれの考えを尊重していたからこそ、「自分がいいと思うことをやればよい」と言っていたのです。
なぜ西郷さんが皆に慕われたのかがわかる、いろんなエピソードば、今後の人生に素晴らしい影響を与えてくれます。
昨日4月に西郷さんの講演に誘ってくださった東先生とも話したんですが、イエスの愛の教えには、理想であって現実には無理だと思われることがいくつもあります。
でも、西郷さんはそれを実際に実践された方です。クリスチャンではなかったと思いますが、真理に到達したら同じなんでしょう。
そして、絵空事ではなく、実際にできることなんだと認識することが、不可能を可能にします。
だから多くの人に聴いて欲しいのです。
直接口伝で受け継がれた西郷さんの生のエピソードを。
人間はここまでなれるんだと思えることが大事なので。
参考までに、答えは一つじゃないとは現代教育ではどういうことが考えられるでしょうか。
ちょっと書いてみます。
まず、国語。
この時の著者(主人公)の心境や気持ちは? これは何を表現している?
などという問題がありますが、正解は一つとは限りません。
著者が読者の自由な解釈を許してる場合があったり、実は一般的な回答が間違ってる場合があるからです。
特に詩や歌詞や短歌や俳句など短い文章はいろんな解釈ができます。
私は石川啄木の
「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」
について、啄木の友人だった方経由で聞いた真相を昔教わりましたが、それはとても学校で教えられる内容ではなかったです。(なのでここには書きませんが、セクシャルな内容です)
それなのに、きれい事が正解とされています。
だから、そんなウソの正解を求めるのではなく、感想や想像を出させればいいのです。どれも主観的な意見ですから間違いとはされません。
そしてその中からグループごとの代表回答を出させるのです。
そうやって意見をまとめていくのです。決して押しつけではなくそれぞれが納得したうえで。
でも、数学の計算結果は一つでしょう? って声もあろうかと思います。
確かに数学的には
1+1=2
ですが、こんなのは計算機でやれること。
もちろん基礎的学習は必要だと思いますが、すっとそれが続くとつまらないです。
でも実際の生活や自然の中では、
1+1=2とは限りません。
コップ一杯の水に砂糖を入れて溶かしてもやはりコップ一杯の水に変わりはありません。ただちょっと甘いだけで。
1+1=1という答えだって実は正解なのです。
だから、
1+1=1となるのはどんな時?
だと、いろんな答えが出せます。
さっきのコップと砂糖以外でも、絵の具を混ぜて別の色を作る、一つになる、子供を作る、コラボで一つのワークショップを行う、カマキリのメスに食べられるオスなどなど。
あと、純粋な数学であっても、
1+1の答えを求めるのではなく、
答えが2になる式は?
とした方がいろんな回答が考えられるので、生徒も楽しいと思います。
いずれにしても、異なる答えでも否定されずに正解となるので、答える方は自由にのびのびと想像力を働かせて楽しく勉強できます。
否定されずに尊重されるというのは嬉しいものです。だから楽しくなります。
この「楽しく」というのもポイントです。
楽しいからこそ続けられるのです。時間を忘れて没頭できるのです。
それが今に生きることになります。
そんな素晴らしい教育方法が、過去の日本には存在したのです。
「温故知新」
本来の自分、本来の教育、本来の世の中を取り戻すヒントが学べますので、
ぜひ、西郷さんの話を聴きに来てください。超お勧めです。
一度聴いた私が保証します。
ひ孫の隆夫さんは今年の27時間TVにも出演して、西郷さんの話を披露していましたが、来年の大河ドラマが「西郷どん」なので、いろんなところからひっぱりだこです。
だから、4月にオファーしたのに、タイミングが合うのが12月9日しかなかったのです。
鹿児島在住の方ですから、またとない機会ですよ。