
室内競技のビリヤードは、最初
は台上に設けられたアーチゲート
を通して、台上の穴に玉を入れる
室内ゴルフのようなゲームだった。
それが、穴がバンク(川岸という
意味)に設けられた穴に発展し、
さらにゲートが取り除かれた。
そして、ゴルフクラブのような
メイスという器具で玉を突き転
がしていたものが、メイスの長い
柄(え)の部分で撞く事が行なわれ
るようになった。
やがて、メイスの打面が除去さ
れて棒だけになった。
それがキューの登場だ。
1860年頃は、まだメイスとキュー
が混在しており、どちらを使って
もよかったが、当時の新聞では
「最近ではキューの人気が高い」
と記載されている。
日本の幕末の絵画を見ても、メイ
スとキューが混在している。
1860年代に入ると、完全にキュー
がビリヤードの主体となった。
そして、台上のポケットは四隅
と中央に設置され、さらに穴を
塞いで平面テーブルとして玉と
玉を当てるキャロムがポケット
から完全分離した。
まだポケットも白玉と赤玉のみ
で行なわれていた頃だ。
キャロムのほうが後発であるの
に、キャロムは一世を風靡した。
やがて、キャロムこそがビリヤ
ードと呼ばれるようになった。
ポケットのほうは、アメリカで
カラーボールが発明され、四つの
紅白玉を穴に入れるのではなく、
大量の玉(15個)を使うようにな
った。
のちに、英国統治時代のインド
でもっと大量の玉を使う競技が
発明される。
それは、旧式の11フィートの大
台を使うオールドスタイルのま
まで、玉を小さく、ポケットの
クッションエッヂも丸くして
難易度を上げたポケット・ビリ
ヤードだった。
点玉は何度でも落としては台上
に上げる。数の多い赤玉は落と
したら上げず、台上に赤玉がある
限り他の色付き点玉は上げる。
台が大きく玉が小さく、玉数も
多い。非常にポケット・ビリヤ
ードを難しくさせた。
それが英国に持ち帰られて英式
ビリヤード=スヌーカーとして
定着した。20世紀の事だ。
アメリカ合衆国にもスヌーカー
が導入されたが、アメリカ人は
キャロムのほうを好んだ。
だが、専門選手ではなく、町の
市民たちは簡易娯楽として色
付き玉の穴落としのプールを
好んだ。
西部開拓時代の終わり頃から、
アメリカ人の市民はプールだ。
だが、玉数が増えたので、それ
までの象牙を丸く削った玉では
供給が追いつかない。
土を焼いた焼き物のクレーボー
ルが発明された。
しかし、焼き物玉はよく割れた。
そこで、新素材開発に懸賞がか
けられた。
そうして生まれたのが、世界初
のプラスチックだった。
人類史上世界初の人工樹脂はビ
リヤードのボールの為に実用化
されたのだった。
地球のプラスチックの歴史は
ビリヤードと共にあり。
歴史的な事実は二度と変えられ
ない。
人類は、ビリヤードをやるため
にプラスチックを作った。
これが古代ならば、聖書にも
出て来そうだ(笑
だが、神はビリヤードは造らな
かった。人間がビリヤードと
プラスチックを作った。
そして、近世には、あまりにも
ビリヤードが人間を虜にするの
で、教会等で不道徳なものとし
てビリヤードが禁止されたりも
した。
要するに、玉撞きにハマると、
何もかも投げ捨てて玉撞きしか
人はしなくなるからだ。麻薬み
たいなもの。社会的に廃人街道
まっしぐらだ。
その傾向は玉撞きには今でもあ
る(笑
モーツァルトなんて、ビリヤード
にハマり過ぎて身を持ち崩した
程だった。
ビリヤードを俯瞰するに、やは
り、キャロムこそがビリヤード
の真髄である。ビリヤードの全
ての技法が存在する。ジャンプ
ボール以外。
私はアメリカン・ポケットを今
は主としてやるが、フォームは
アメポケ専用のフォームでやる。
キャロムの時にはキャロムのフ
ォームを取る。これは適正化の
ため。
キャロムでプールの撞き方や
フォームはナンセンスだ。キュー
も取り方も異なるからだ。
また、スヌーカーのフォームで
プールは出来るが、その逆は無理
だ。適正化の問題から。
ただ、アメリカン・プールにおい
てスヌーカーのフォームを指導
しようとする「指導者」もいる
が、これまたナンセンスだ。
適正化を無視しているからだ。
オフロードタイヤでアスファルト
のサーキットを走って良いタイム
など出る要素が無い。
ビリヤードもそれがある。
やたらスヌーカーの英国語でし
かプールの技法を説明しないの
も、それも日本への適正化を欠
いているので宜しくはない。
これまで、日本では撞球王国と
しての伝統単語が存在するから
だ。
それを尊重しつつ、外来新語も
併用するのが、人に優しい指導
かと感じる。
ただし、ビリヤードはどんな種目
でも、共通の技法の中心がある。
それは、トン突き、突っつき突き
をしない事だ。
撞球は玉を「撞く」のである。
トンと突くのを「指導」する者も
いるが、それはお門違いの勘違い。
ビリヤードは、全種目において、
「玉を撞く」のである。
然るに日本語では撞球。
「撞く」とは、突き止めの事では
なく、貫く意味が含まれる。
まさに、ビリヤードはどの種目で
あっても、「玉を撞く」のである。
トン突き、チョン突き、突き止め
などはしない。
キャロムこそがビリヤードの王様
だ。
ビリヤードのキュー操作の真髄が
詰まっているからだ。
そして、アメリカン・ポケット・
ビリヤードをやっていても、37年
もやっていると見えて来るビリヤ
ードの中心、核心、コアというも
のがある。
それは、ビリヤードとは「手玉
を如何に操作するか」という球技
である事だ。
手玉を制した者がビリヤードを
制する。これである。これ、不動
の定理。
その定理が見えて来ると、その
定理は極めて難易度の高い次元
の事を人間をして挑戦せしむる
存在である事も解ってくる。
難しいからこそ面白い。
人はそれに挑戦しようとするから
だ。
実に人間らしい部分を自己意識
的に引き出さないと取り組めな
い。
だからこそ、ビリヤードは面白い。
ビリヤードは、とても人間的な
スポーツだ。
だが、人間的であればこそ、人間
の良なる部分を失わないように
自己制御しないとならない。
撞球は手玉と自己を制御する種目
だ。
身も人の心も持ち崩してはならな
い。
撞球人にクズが多いのは、その
重要かつ決定的なビリヤードの
持つ正の力と負の力について
無頓着で無警戒だからだ。
いつでも悪魔の囁きに脅かされ
ているのがビリヤードでもある。
人の罪は原罪に遡る。
人は心を無くしてはならない。
撞球は人の人としてを試される。
人は神を試してはならないが、
人はビリヤードをやる事によっ
て神に試されている。