
刀術における試斬は「試斬」であって
「試切」とは古来呼ばれていません。
そこをよく勘案しない人たちは、斬撃
目標物が切断できたかできないかだけ
に心が囚われがちです。
それは目線が曇っています。
試斬の前には「何のために、何を試し、
何を学び取るのか」ということが明確
になっていないといけません。
そして、その明確な導きを行なえない
「指導者」の下で刀で物を切っては
ならない。
私も個人的に請われて試斬を手ほどき
することがありますが、生まれて初め
て日本刀で物を切る人にあっても、
一切刀を曲げることは起きません。
それは極めて適切な要綱を事前に
充分にまず頭脳で理解してもらい、
その脳の働きを剣技で体現して
もらうように導くからです。
また、特殊な技法として、例え畳表
巻を切り損じても、刀を曲げない
方法があります。
これは普段から抜刀術等を嗜んで
いる人でないと難しいのですが、
それをするとまず刀を曲げる事は
ありません。
私はこんにちまで、試斬で日本刀を
曲げた事は一度もありません。
畳表が切断できたかできないか
などは詮無き事なのです。
そんなことよりももっともっと
大切な学び取るべき点が試斬には
ある。
己の技前の出来栄えを自己確認し、
悪しき点を見出し、それを改善
する考察をするのが試斬であり、
文字通りの「試し斬り」なのです。
ちなみに、漢字の原意は、「切」
は切断であり、「斬」は切り裂く
ことです。
日本語の場合は「きる」という和語
に漢字を後から当てはめたので、
「切」も「斬」も同じ「きる」に
用いられますが、大元は概念の
区別があります。
また、日本語の場合、意味なく物体
をちょんぎることに「切」が使わ
れて、「斬」は武器でのキリを
表す場合も多いようです。
解雇の事を「首切り」とは書きます
が「首斬り」とは書かない。
また「足切り」や「関係を切る」
も「切」であり、「斬」はあまり
用いられない。
そうした、概念上においても「切」
と「斬」は区別されているようです。
刀法においては、日本刀は切断刀法
は主たる武器使用目的の結果では
ないという重要な日本刀についての
見識が必要です。
たとえばこれは土佐の英信流ですが、
「浅ク斬リテ勝ツ」という流派の根源
的な教えがあります。
これは、切断を狙って刀身を敵の
体内に沈みこませたままではなく、
切開力の「斬」刀法を使って、
刀が止まる事無く自在に万方位から
運刀できるようにせよ、という
刀術としての教えです。
そして、一刀目の横一文字は、
「-(マイナス)」ではなく
一文字となる。これの説明は流派
の要議になるので英信流の先生に
お尋ねください。
なお、抜きつけにおいてはフクラを
充分に使った「斬刀法」であること
は論を俟ちません。モノウチを使う
切断刀法ではない。
そもそも頭蓋骨を片手抜き打ちで
真横に一刀両断などはできません。
英信流の場合は、頸筋もしくは
腕を狙っての抜きつけとなり、
斬られた敵は当然前のめりになる
ので腰進めは無いままでの真っ向
切り下ろしのとどめとなる。
逃げたから追う、という想定は
土佐本流の一刀目にはありません。
つまり「浅ク斬リテ勝ツ」の刀法
を用いる術として体系化されている
のです。
土佐英信流においては試斬はやり
ます。これは分裂したどの連盟に
おいても。空気切りだけでは刀術
の研鑽には限界性があるからです。
当然、組太刀である「太刀打之位」
も初二段あたりですべて覚えます
し、完成度の未達は問わず、初段
終わり頃には奥伝もすべて把握
しています。
古流流派とはそういうものです。
各業ごとの練りと完成度を上げる
段階は、修行年限によりどんどん
密になって行くもの。
何年もやらないと奥は教えない、
という方法は私の土佐本流の系統
では採りませんでした。
私の系統の第17代大江正路(まさじ)
先生からの皆伝者山本晴介先生の
直系同門では、奥伝も太刀打も
それ以外の流派技法も惜しみなく
機会があれば伝えてもらえました。
それは、土佐高知において、流行
に流されず、その伝統を頑なに
守ってくださる先生がいらっしゃる
から歴史的道統が守られているの
です。
一つの定理があります。
剣法は試合でも試斬でもありません。
それらはあくまで剣法錬磨の一つ
の手段として明確に自身の中で
認識する必要があります。
試合の為や試斬の為にのみ日本刀を
帯びる剣士などは剣士ではないの
です。
心得違いをしないようにお気をつけ
ください。
こうしたことは、私が師匠から
すべて叩き込まれたことであり、
今の時代では「私的」なことに
なるのでしょうが。
考え違いは起こさないほうがいい
かと思います。
なんせ、使うのがとても危険な
日本刀であるので。
抜かないことが一番なんです。
しかし、抜かないためには、「抜け
ない」のではなく「抜けるが抜か
ない」でなくてはならない。
刀を帯びる者が、その刀の術技を
身に着けていないということは、
目的意識的に「抜かない」という
事を選択をするその領域には達する
ことができないのです。
己を制御する力を養うためには、
「抜く」ことができることが大前提
です。
刀術を研鑽される多くの方々が
本当の真(まこと)の人、真の
実力者になってほしいと願います。
私もまだまだなのに年ばかり取って
きてしまいました。
気持ちはまだ27歳なのですが(笑)。