記念すべき50歳まであと5日・・

 

渡米して活動している中、兄が亡くなり帰国してたくさんこしらえた借金を返すためにバイトに明け暮れた一番大切な20代の殆どを使ってしまったけど、ヤングギターの完コピ大賞の一発グランプリをきっかけに、日本で「お仕事のプロ」になる事をキッパリ諦めて自主製作のCDを出し、圧倒的なセールスを誇ったもののメディアからは何故かサポートを受けられずに苦戦したつつも、恩師成毛滋さんのあらゆるサポートによりメジャーデビューしたアルバムが見事、世界に誇るメタル雑誌「バーン」のチャートで1位に輝いた事が何よりの実績となりました。

きっかけはパープルエクスプレスというラジオ番組で師範代をされていた古川さんがつなぎ合わせてくれたのです。僕はラジオの事は友達から聞いた事はあったものの一度も聞いた事はありませんでしたが、成毛さんは別に聴かなくてもこれだけ弾けるんだから問題ありませんといってくれましたね(笑)・・そこから仲良くなって友達のように気さくに色々と非常に興味深い経験談を語ってくれました。

主に僕がセールスの主としていた新星堂さんの売り上げが影響しているとはいえこのメンツを抑えて6位から1位にランクアップできたのは素晴らしい思いです。1999年12月5日、20代ギリギリでなんとかプロデビューしたという感じです。

 

20代前半はアメリカで過ごしました。

ギターだけには自信があったので渡米したものの自分が憧れたギターミュージックは2000年から一気に低迷し、それでも曲を書き続けました。

自分がなりたいものが明確にありましたからね・・

そんな中兄が結婚するという事で帰国、結婚式でギターを弾きました。

その1年もたたないうちに兄は家族を置いてウインドサーフィン中の事故として自ら26年足らずの人生に終止符を打ったのです。

23歳の僕にはどうしていいのかもわからず、音楽なんかしてる場合じゃないのではないのでは?と考えるようになりましたが、兄が一番僕の事を応援してくれていたという事で家族は僕の応援を引き続きしてくれたのです。

 

しかしながら高校生の時以来日本での活動歴が全くない僕には音楽関係者の知り合いが一人もいない状態でアルバイトを続けながら楽曲制作に勤しみ、日々バイトを詰め込んだ結果それなりにゆとりが出来たので、一切の仕事を辞めてラストスパートと言わんばかりに27歳から制作だけに集中する1年をすごしたのです。

この頃はまだK.Simonzだったので「ケリーシモンズ」とよくいわれてました。

まだまだ希望に満ち溢れていますね・・この後地獄を見るのですが(笑)

 

翌年リリースしたSign Of The Timesは圧倒的リスナーの支持を得て自主製作で一度もライブをしてない身としてはまさにメガヒットしたといえるでしょう。

このメガヒットが物議を醸しだし?ほとんどだれもその実像も知らず存在も謎だったので憶測が憶測を呼び?様々なうわさをされるようになりました。

でもインターネットの特徴というかそのほとんどがネガティヴな情報でした・・まぁ分かりやすく言えば悪口ばっかりというか(笑)

実際に存在する僕には何の問題もなかったのですが、あまりに執拗な執念深い言われもない批判を長年受けるようになってしまったおかげで思うように活動する事も大変でしたし、この頃は本当に自分自身のやっている事に何ら確信ももっていなかったので、ショックも大きく落ち込んだことも沢山ありました。

 

というか人間匿名だとこれほどまでに極悪卑劣な人間になれるのかぁと思う程皆さん激しかったですね・・

 

今と違ってインターネットを利用する人たちが限られた狭い空間だったので仕方ないかと思います。最近誹謗中傷が取り沙汰ますが僕からすれば今の時代のほうがライトな気がしますが、どっちみちそういったものは無くならないと思うし、嫌ならやめればいいだけですからね。

 

僕は辞める理由がありませんからやめませんといって20年が経ちました。

まぁとにかくなんだかんだと20代は殆ど音楽活動をした経験がなく、ライブなんて帰国してから数回か10数回ぐらいしか記憶にないし、それでもこうして50歳になるまで音楽を続けられているのは、要は質の高い音楽づくりに拘ってきたから確かなファンが存在しているというだけなので、これからも質の高い作品を作り続けてライブやイベントに関してはまたそういった時代に戻ればやればいいだけと考えています。

僕はその時々に沿った一番ベストな方法をチョイスしてひたすら自分の音楽を発信していければと思ってます。

 

(続く)