今日は父の命日です。

 

生きるという事は死ぬ事である、これは父の一生から大いに学ばせてもらいました。

そんな父の人生を僕が覚えている限りですが紹介させてください。

 

ただのしがないサラリーマンではない沢山の経験が詰まった男の生き様を感じさせてくれるでしょう。

 

どれだけ多くの人の為に自らを犠牲にして生きる事が出来たか、それが全てだと思います。

島津和男、1932年(昭和7年)、8月29日大阪生まれ。

裕福な獣医のもと、大阪市内で幼少期を迎えるも高等中学在籍時に先の大戦で高知県土佐清水へ疎開。

都会育ちだったため田舎暮らしに馴染めない上に早々に父(祖父)は他界し、さらに父の母(祖母)が子宮がんになり医者にも見捨てられた状態の中、父が一人全ての世話をしながら学業に励むも、厳しい家庭環境の中残念ながら高等中学校より先へは進学できなかったそうです。

幼い妹と弟の面倒を見ながら父は子宮がんになった母の看護もしながらの生活を少し話してくれましたが「ホンマ下の世話はクッサかったわ~鼻もげる思たで~!」と明るく話していたので当時僕にはオモロイ話にしか聞こえませんでした(笑)

父はとても学歴にコンプレックスがあったのも非常に勉強熱心で頭は誰よりも良かったと田舎でも評判だっただけに自分が大学まで行けなかった事をとても悔やんでいましたが、僕にとっては正直どうでもよかったのであまり気になりませんでした・・これも今思うと失礼な話です。

土佐清水で育っているので僕が聞いた話ではあらゆる仕事をしたそうですが、その中でも漁師で漁船に乗り何ヶ月も海へ出てはあらゆる町の港で過ごした経験を聞いた事があります。一度は歌手を目指して大阪へ出てきたりもしたといってました、でも「顔が悪いからあかんねん」とずっと言ってた気がします(笑)・・愛嬌があると思うんですが、本人はとてもプライドが高かったのでしょう。

20代からサラリーマンを目指したのかブラザーミシンに就職するも営業が苦手なのか辞めてしまったようですが、さらに今度は保険会社の営業として就職してしまうというそこも謎の転職ですが、その時新入社員の母、雪子とであってしまうのでした・・10歳も若い母をたぶらかして見事結婚したのはさすがだと思います(笑)

母はなかなか立派な農家の末娘で皆に可愛がられていた為、父の様な野獣の田舎者には娘はやらん!と反対されたようですが結局は両親ともにイケイケだったため駆け落ちする形になったそうです・・やりますねホントに。

そこからは僕たち4人姉兄の為にまさに文字通り身を粉にして働いてくれました。

僕がもの後頃着いた時から父は日曜日に競馬新聞を読んでステテコ姿でゴロゴロしている以外家には全くいない存在でした。

朝6時半に起きて僕が学校に行く頃には毎日駅まで30分の徒歩通勤をしていたので夜も寝る事に帰ってくることはほとんどなかったのでそんな生活を30年以上続けていました、一番印象に残っているのは70歳手前の父が電車を降りた途端早歩きでホームを出て下り階段を階段抜かしして何を急いでるのかと思ったらバスに座りたかったという・・恐ろしい脚力を見せつけられたことですね(笑)・・って結局オモロイ話ばっかりなんですがね。

先にかいた通り大手生命保険会社だったので学歴がない父は出世コースからは最初からはずされていたのですが、もちまえのキャラクタを最大限に発揮したのかめきめきと営業所で結果を出し、最終的には東京へ単身赴任し全国労働組合の書記長に抜擢され職員の為に会社と闘う日々を過ごしていたようです。

70歳で定年するもいろんな会社の顧問をしたりして最終的には大手スポーツ用品店の顧問をやる事になり、顧問なのにお見せに陳列されているちらかったシャツなどを折り畳んだり、店員さんたちともコミュニケイションを図る事で系列店の店長さんたちに「顧問は我々の精神的支柱です」と同世代ぐらいの店長さんたちに直接言われたときはビビりましたが、さすがやるなと思ってました(笑)

僕が上京して間もなく急にガンが発見されて「ガンガン言うてるわ(笑)」といって治療に励みましたが、結局は転移していく一方だったので延命を諦め最後まで楽しく!ということで故郷に戻ってコンサートを開きました。

その一か月半後この世を去りましたが、まぁ送る側の身としては出来るだけの事はやったなと思っており後悔はしていません。

2013年5月12日、僕はその週末から台湾でのイベントが決まっており、最後にあったのは台湾遠征の直前でした。

父はもう会話も出来ない状態でしたが、僕が返るまで頑張るという熱い思いを受け取ったので僕は泣く泣く東京へ戻り台湾へ出発し、無事2日間のイベントを終えた12日の日曜日の夜、ホテルで姉から父が亡くなった事を知らされました。

僕は父が大好きです、昔は和男なんて名前ダッサイと思ってましたが(笑)、日本男児で男がつく名前程カッコいいものはないと今は思います。

まさに男の中の男、忍耐という言葉を教えてくれた人生の師匠としてこれからも教えを忘れずに人に優しく、時に厳しく甘やかさないでしっかりとした人間を育てる役割を果たそうと思います。

母も楽しくやっているし沢山はいないけど信頼できる仲間もいる、それで僕は十分です。

何より父のお陰で正直に生きる事が出来ています。

お父さんどうも有難う。

長い間お付き合頂き有難うございます、何度も言いますがこれは悲しい事ではありません。

超イイ話でしかありませんのでどうかご理解ください👍

和男になりたい和博より。

というわけで父がガンになったという連絡を聞いたときに思わずギターを取り出して弾いた曲「光」をお聴きください。