高校卒業後しばらくして渡米、フラフラしたのちMIハリウッドへ入学。

1994年頃、事情により帰国。

兄が突然逝去しました・・僕の人生を大きく変えましたが彼のお陰で音楽をやっているので感謝の気持ちはひと時も忘れません。

 

この間こなしたバイトは、NEC工場でのライン作業(主にサーマルプリンタ、そしてコンビニ初のPOSレジ組み立てラインに起用され毎日150台のベースをラインに乗せる作業で腰をいわす)をメインに、ごみ焼却所の掃除からLAN基盤清掃(主に保土ヶ谷の焼却場に行きました)、高速鉄道高架橋の列車走行時の振動解析などあらゆるよくわからない仕事を瞬時に理解し「出来る人」みたいになることを利点にあらゆる仕事の新規開拓を任される(笑)気づいたらお金がたまっていたので1997年からは一人アパートにこもりアルバム制作を始める。

 

1998年自主制作発売。インターネットのみのプロモーションで当時大ヒット。お蔭で様々な憶測を生み結構ひどい目にあうが真実は一つだと信じ続ける(笑)、ホントにつらかったけど両親と無き兄に誓った思いで何とか堪えることが出来ました。

 

古川氏の紹介により成毛氏に出会い、色々とお世話になる。


成毛氏のお陰でロードランナーを紹介して頂きメジャーデビュー、その後無名という理由で不可解な前金を要求されるも、成毛氏の即払いによりスウィートベイジルでデビューワンマンライブを実施。

 

グレンヒューズ&ジョーリンターナーと初代ブラインドフェイスメンバーでユーロツアー。


しかし海外での現実の厳しさをまざまざと思い知り、ハードロックヘヴィメタルでの音楽活動を断念せざるを得なくなる。

MIジャパンより声をかけて頂き、2003年スペシャルアドヴァイザーに就任する。
素晴らしい学生たちと出会い、自分自身気合が入りよりギターが上手くなる(笑)

Takayoshi&Takaとの出会いはとても僕の人生にとって大きな刺激となりました。

 

2005年、ブラインドフェイスオリジナルメンバーのKeisuke氏が教務を仕切るNCA(名古屋コミュニケーションアート専門学校)に名古屋だけということで特別に講師に就任。同年ドラマーYosukeも入学。ベーシストKAZとYOKOをYosukeの先輩にあたります。

 

2008年、突然メロディックデスメタる。

2009年、教則本『超絶ギタリスト養成ギプス』を発刊、一ページ目から弾けないと話題になる(笑)

 

2011年震災直後に上京、この時多くの人が西へ移動しつつあった中僕は「このタイミングこそチャンスだ」と思いYosukeと共に軽ワゴン車に夢をいっぱい詰めて東京へ向かう。

始まりはバッドトライブでしたね・・カッコいい👍

 

その後はフェイスブックでご覧ください(笑)

 

とまぁ平成は僕にとってはあっという間でした、昭和45年生まれなので18歳の時に元号が変わったのですが、はっきりいって昭和の18年の方が濃かったのではないかと思います。

というよりはっきり言って僕はあまり振り返るような人生を生きていないので別に今最高であればいいかなといつも思っています。

 

という事で自分でやりたい事を決めて休みも自由で(ずっと休むとまずいですが)なんだかんだで沢山の人に僕の活動を楽しみにして頂いているだけとても幸せを感じています。

1998年の時、ホント世の中が信じられないぐらいつらい目にあいましたが、それもまた僕が才能にあふれていてみな恐れをなした結果なんだと今はハイパーポジティヴに思えるのも、あの頃はなんだかんだで自信がなかったからなんだと思います。

いまはそりゃもういろんな所へ行ってギターを弾いていろんな人とともに演奏して経験も沢山得ることが出来たので、その中で僕の音楽やギタープレイはやはり超絶だと自負できる部分も多々あるのでこのまま突っ走って突っ切りたいと思います。

世間の波には合わせるつもりはないのでファンの皆さんには少しやきもきさせるかもしれませんがそれもまた僕なので温かい目で見守って頂けるとありがたいです。

 

これからも正直に音楽に忠実に自分の思うように生きていきたいと思います。

また詳しいオモロイ話はメルマガに書きます👍