明日誕生日を迎えるに当たって、いつもは大体実家で過ごすんだけど明日から名古屋なんで今回は週末にちょっと早めに帰りました。
ふと部屋の整理をしていて、懐かしい雑誌があったのでふと見ていると、そこには輝かしい歴史がありました。
2004年頃、オレは帰国して数年間色々な借金を抱えていたので返済のため仕事(もちろん音楽ではなく肉体をメインに使う仕事)を数年間こなし気づいたら27歳になっていた。そこである程度の余裕もあり、一年間自身のアルバム制作に没頭し完成させたのが1998年完成の自主制作アルバム「SIGN OF THE TIMES」である。当時インターネットが普及して間もない事もあり、オレはネットでのプロモーションがメインになっていて(後に様々な誤解を生む事になるんだけど、オレは実際問題日本で何も活動してなかったためまったくと言っていいほどコネクションもなにもなかったので致し方ないが)ネットギタリストなどと揶揄されるようになった、自分でもビックリだった。
若い頃から根性でアメリカに渡り、数多くのセッションやライブを経験しおそらく二十歳になった頃すでに千回以上はこなしていたオレがネットギタリストって・・オタクやん(;´▽`A``なんで??って思ったんだけど、当時インターネット自体オタクのツールとしてイメージされていたのかもしれない。
これがオレの負の歴史?というか厳しい人生を送る羽目になる一つの要因になった反面、北海道から沖縄まで、さらには海外にまで飛び火してオンラインのみで1000枚以上の発送をするまさに時代を先どる手法で成功を収めたといえた・・ただ今だにその風潮はあるけど、紙媒体を若干敵に回す事になってしまった。
「あぁ、ケリーさんねインターネットで売れてるみたいですね~うちのような古い媒体にわざわざ載らなくても大丈夫でしょう」などといわれるようになり、イメージがさらに神秘的になる事もあってメディアが嫌いだの性格が悪いだの(お約束だけど)言われるようになった・・まさに自分が自分でなくなっていくのを肌で実感したのもこの頃だった、とにかくオレは性格が相当悪いらしい・・困ったもんだ、どうすれば良くなるのか教えて欲しいDEATH。
オレはただ日本のハードロックのクオリティを世界に通用するものにしたい、ただそれだけで正攻法で攻めて来た。人によってはとても馬鹿馬鹿しいだろうし、何気合入れてるの?みたいな事言う人も沢山いた。「所詮日本人じゃん」ってのも沢山ある・・今でもあるだろうしね。でもオレが憧れたのは日本にはなかったしラウドネスが輝いて見えたのがアトランティックと契約しハリウッドにいってもアキラタカサキは尊敬されてた・・そういう人達が決して珍しいものではなく、日本のハードロックも同じレベルで聴いてもらいたい一心で頑張ってきた。
でも揚げ足をとられる事が少なくなかった・・もちろんオレはアメリカに行くまでは普通にシマヅカズヒロという本名を名乗っていてKazと呼ばれてたけど、アメリカでバンドを組んでスポンサーが着き、デビューが決まろうとしていた時にKELLY SIMONZになった・・ただそれだけの事。日本の大阪の片田舎でずっと生活していたらオレはきっと本名かもしくはカズとか名乗ってたかもしれない・・でも正直そんな事はどうでもいい事だし、音楽のキャリアが圧倒的に日本では少ないオレが選んだのが、アメリカで活動していた時の名前ってだけの話。でもそこもかなりつっつかれた・・自分では想像していなかったほどにね。
ってかオレ的にはユースケサンタマリア程度に考えてたんだけど、名前がマトモだからいけないのかね(笑)・・いまとなってはもうネタでしかないレベルまで来たけどね、それでもオレはオレの求める信念のもと自分が描いていたハードロックを貫き通す決心は変わらなかった、このとき既にかなりやられてたけどオレの一番の強さはアメリカ時代の想像を超える辛い経験を乗り越えた事、それに比べたら屁でもないと思えるほど向こうでの生活はきつかった。
サインオブザタイムスで最高位3位(他のアーティストをみると本当名だたるものばかりで嬉しい限り)だったけど、年間チャートでも見事3位にはいったこのアルバムは一年以内で8000枚以上を売り上げた、バンドでのライブを一回もしないでね(笑)・・これがまた厄介な問題を生んだ、ライブが出来ない、実際は下手じゃないのか・・見た目がブサイク過ぎて表に出れないのでは?(笑)など色々・・いやぁホント人って知らない人のことになるとボロクソいうからね、まぁオレだって絶対いわないってことないから仕方ないと思ってるけどね、この辺はこういった活動する人間は覚悟しないといけないとこだしね。
そういった意味でも結果を残す事でザマァミロ!!というのが一番オレがすっきりするやり方だったから、次のロードランナーでのメジャーデビュー盤でその結果を出せたわけです。
2000年3月号、忘れもしない日本のハードロック雑誌で一番権威のあるバーンの月間チャートで一位を取ることは非常に光栄な事。インタビューなどは実際載った事がないオレがなぜ一位?って思った人もいるだろうけど、結局オレは音源がよければ売れると実証できたと思ってます。ミュージシャンは音楽で勝負すればいい事、色々言われてもなにをされても良い曲かいてCD作ってライブすれば真実は一人歩きするものだと思ってます。ギターヒーローに憧れて、その憧れた人達がリリースしていたシュラプネル・ロードランナーからアルバムをソロで誰にも文句をつけれられずやりたい様に作ったアルバム「SILENT SCREAM」は今でもオレのなかではベストになります・・ブラインドフェイスファンには申し訳ないけどやはりオレがやりたかったのは、メロディがしっかりしていてしかもギターが邪魔していないにも拘らず聴き応えがあるものなのです。
それが本物でなければ続かないしね・・ただオレはその後のヨーロッパツアーで燃え尽きてしまいました、ちょっと戦うのに疲れたというかね。もちろん信念が曲げられる事はなかったけど一人で戦うのは物凄く大変でした、それでも家族と親友、ファンの人達は決して自分を裏切らなかったし自分が間違ってなかったと確信できたんだけどね・・それでも疲れたってことは相当だったと思います。
オレが音楽学校の講師になった理由も、普通のミュージシャンではありえないほどの苦境を与えられてそれを乗り越えてきた実績があると自負しているからです。上手いとか下手とかのレベルではなく人間の本質というか折れない精神をもって信念を貫いてきたこのマインドの部分は是非とも学生に知ってもらう価値があると思ったからです。ギターが上手いとかなら他にも一杯いるしね。
とにかく色々な意味でとても強くなれることが出来た、人間は甘やかされるより苦境を与えられてそれを乗り越えた人間の方が何倍も強い事は誰だって知っている事。だからオレはいろんな事に感謝している。
その中でも一番成毛さんには感謝しないといけないかもしれない、当時愚痴った時に彼は「試練は乗り越えられるものにのみ与えられる」と言った、オレがいやな事ばかりでなんだか馬鹿馬鹿しくなると話したときの事・・与えられた試練が大きければ大きいほど乗り越えたときにはさらに大きくなっていると。
40歳まであと2年、また自分を曝け出して世間に八つ裂きにされるべくインディーズデビューより10年目の今年魂の形というか生き様の結晶を残したいと思います。
ガンバラネバ(`∀´)/

