Another Story ~アダルト・チャイルドの成長記録~ -4ページ目
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仮面ライダー

その後、私は2度目の引越しをしました。

2才の頃だったと思います。


私自身の記憶に残っているのは3才くらいからです。

私は、男の子みたいな女の子でした。

プラスチックの刀で、よくチャンバラごっこを楽しんだのを覚えています。

髪も、男の子みたいに短く、ズボンを履いていた事が多かったです。

お祭りの時、仮面ライダーのお面を欲しがったそうです。

ひみつのアッコちゃんのお面もあって、いくらそれを勧めても、聞かなかったと父は言います。

遊び友達も、男の子しか覚えていません。


ある日、私はプラスティックのパールを鼻の中にいれて遊びました。

夜になり、苦しくなり、ようやく母に告げたのでした。

どうしても取れず、病院で取ってもらったらしいです。


海水浴に歩いて行った帰り、道に落ちているビー玉を拾い、口に入れました。

何かの拍子に、飲み込んでしまいました。

でも、誰にも言えませんでした。

どうなってしまうのだろう・・・・・・不安でいっぱいでした。


貿易船に乗っていた父の従弟が、居候をしていて航海のたびにお土産をくれました。

しゃべらない九官鳥・・・・・

冬に水浴びをして死んだと聞いています。

ハーシーズのキスチョコ。

とってもうれしくてたまりませんでした。

黄色い雨合羽のポケットに入れ、取り出しては食べていたのが記憶に残っています。


3才6ヶ月の時の絵が残っています。

幼稚園や小学生の時の絵も、工作物も、何ひとつ残っていないのに、残っている2枚の絵。

「バナナ」と「私」と題された絵です。

「バナナ」の方には、S46.8.20と記されています。

母は、絵の上手かった、祖父の血を引いて上手いのかもしれないと、将来を期待したらしいです。

そのため、この絵だけは大切に、保管していたようでした。

私 バナナ

今思えば、不思議な絵です。

4才くらいまでは、造形意識がなく、人を描いても「頭足人」を描くとされています。

でも、「私」の絵には、ちゃんと胴体が存在し、目にはまつげまで描かれていて、鼻の穴もあります。

耳もついています。

しかも、マジックで描かれています。

服にもデザインがされていて、ボタンまでついています。

そして、「バナナ」の絵には、ちゃんと黄色の色が塗られています。


4才の誕生日になる前日、二人の男の子と遊んでいました。

一人の男の子が、「4才じゃなかったら遊んであげない」そう言いました。

仲間はずれにされて、悲しかったことが心に残っています。

初めての怪我

私が3ヶ月の頃、父は家を見つけ、引越ししました。

母の母乳が出なくなったのは、そんな環境の変化からかもしれません。

あまりに夜泣きをする私に気が付いた近所の方に、一人でお風呂に入れる方法を習ったのもこの頃だったようです。


自分で風呂に入れることが出来るようになってからは、少し楽になったと母は言います。

それでも、母乳不足と、ミルクを嫌って、空腹の為に泣き続けるのには変わりなかったようです。

でも、それは離乳食が始まると安定しました。


10ヶ月の時、私は歩き始めました。

よろよろと立ち上がり、2歩、3歩と歩く姿を見て喜んだそうです。


その後、だんだん歩けるようになると、押入れの中に入り、打ってあった釘に引っかかり、耳が裂けました。

母は、ハンカチで私の耳を押さえ、病院に駆けつけました。

3針縫う怪我でした。

「我慢しなさいよ。」母にそう言われ、泣かなかったそうです。


動物が大好きで、近くにある動物園では、うさぎを抱いたまま離さなかったようです。

よちよち歩きの頃の私が、うさぎを抱いている写真が、たくさん残っています。

子どもを育てていく中で・・・・・

子育てしていく中で、いかに自分の育ってきた環境が大切なのか、感じています。

子育てにつまずいた時、子どもを見つめることも大切だと思いますが、まず自分を振り返ってみることが大切ではないかと思い始めています。

子どもは、親を映す鏡です。

どうしてこんな風に思ってしまうのだろう。どうして上手くいかないのだろう・・・・・

人間関係で悩むことありませんか?

子ども時代のあなたが、あなたのことを縛っていることもあります。

心の中で、泣き叫んでいることもあります。


子育てにつまずいた時、自分を見直すチャンスだと思います。

本の中から抜粋して紹介していきたいと思います。


 親たちは「良い」親になろうと懸命になることがよくある。

しかしそれは意識のレベルでの努力である。

親たちが子どもに与える傷のほとんどは、無意識的な動機から起こる。

わざわざ意識的に残酷で危険なことをする親と言うのは、まずいない。

自分の子どもの人生の中に問題を作り出す親のほとんどは、自分自身が子ども時代に送った同じ人生を無意識に繰り返し、自分の親の行動を無意識に自分で再び演じている。

このように同じ苦しみが、世代から世代へと几帳面に受け継がれ、次の世代はまた同じ敵意を担い、それを表現していく。


 子どもの時に親に加えられた精神的身体的損傷が、おそらく大人になってからの精神的な病気や不幸に責任があると思われる。

親というものは、実にさまざまなやり方で子どもに危害を加える-それも、知らず知らずのうちにそうなることがよくある。

それは人目をはばからない言語道断の虐待から、そうとはわからない目に見えないもの、あるいは無意識の敵意といったものまで、その範囲は広い。

親の多くは自分の子どもを扱う時、自分自身の子ども時代を再体験するという傾向がある。

この再体験は、普通無意識に行われる。

従って、充足し安定した子ども時代を送った人は、成人してからも健康的で自信のある人になり、子どもを愛し確かな安心を与える親となる。

ところが子どもの時に危害を加えられた人は、それをそのまま持った大人となり、さらには自分自身の子どもに対して危害を加える親となる。

この連鎖は、ともすれば、世代から世代へと着実に、無限に繰り返される


このようなパターンは、その人の意志の力がどんなに強くてもそれを変えることは出来ない。

そのパターンの出来上がる理由が、記憶されていない過去にあまりに強く深く根ざしているからである。

無意識が動機となると、それは意志の力より強く働く。

しかし、実際に不満を抱いて暮らす人、精神的な情緒的な病気に苦しむ人、悲惨な人間関係の実りない繰り返しにいつも巻き込まれてしまう人、そのほかもろもろの精神的な問題を抱えている人たちにとって、解決策がひとつある。




親から自分をとり戻すための本~「傷ついた子ども」だったあなたへ~

マーガレット・ラインホルド 朝日文庫 より



この本では、解決策として精神科医にかかる事を勧めています。

でも、それだけが方法ではないと思います。

私は、カウンセリングを受けながら、それを解決していく方法を選んでいます。

インターネットで情報を得ながら、取り組んでいる方もおられます。

自分にあった方法で見つけていけばいいと思います。


私自身、親に大切に育てられ、尊敬すべき親だとずっと思っていました。

でも、ずっと不安で不安でたまらなく、そして人との付き合いが上手くいかない。

そして夫婦生活さえも破綻してしまった。

そんな時、ブログに吐き出しを始めました。

それによって、思わぬことが発見されました。

育ってきた環境によって自分が支配されていたこと・・・・・・


他の方のブログを拝見しているうちに、同じような夫婦関係を見て、何かのパターンがあるのかもしれないと思い始めました。

私は、それを探るのに一番早い方法だと思い、専門家にゆだねました。


今、世間一般に言われているような虐待などだけが問題なのではありません。

子育てに行き詰った時、振り返ってみてください。

何か、解決策が心の中にあるはずだと思います。



こちらには、具体的な話が書かれていて、わかりやすいです。

「鏡の法則」http://coaching-m.co.jp/reportaaa.pdf


関連記事をこちらでも書いています。

心理療法http://blog.goo.ne.jp/keko7/e/86c73af900479650af899cd9e5851d3d


誕生

結婚後、父と母は、3件繋がった長屋に住んでいました。

父は、薬の卸会社に勤め、母は、近くの歯科で働いていました。

そして、結婚して半年が過ぎた頃、私が宿りました。

母は、つわりがひどかったそうです。

そして、出産後も来て欲しいとも言われていた歯科を辞めました。


その頃、同じ長屋に住む人たちと市営住宅の抽選会に出掛けました。

市の職員が、大家さんの所へ住所確認に言ったらしく、気分を害した大家が、出ていって欲しいといい始めました。

一家族は、なんとかそこへ残れるようになったものの、父と母は出て行く羽目になりました。

お腹の大きかったことから、出産まで待って欲しいとお願いして・・・・・

この時のことを母は、身重なのを知っていて追い出すようなことをして、本当にひどい仕打ちだったといいます。


そして、1968年2月29日の未明、私は産まれました。

出産に時間が掛かり、吸引分娩だった為に、顔が長くこのままだったらどうしようかと思ったそうです。

出血量も多く、大変なお産だったようです。

可愛かったとか嬉しかったという言葉を聴いたことはありません。

私の出産は大変だったようです。

うるう年に生まれてきた私は、医者によって3月1日生まれとされたようです。


私が生まれた時、父はカメラを買いました。

父の長兄は、カメラマンを副職にしているくらいのカメラ好きです。

父もカメラにこだわりがあり、いいものを手にしたのでしょう。

ローンを組んで買ったようです。

子どもと遊ぶのがあまり上手くない父は、写真を撮ることが愛情表現だったのかもしれません。


母が、出産里帰りをしている間、父は友達の海の家を一時的に借り、その間新居を探しました。

市の好意で、何度か抽選を受ける権利も得たのですが、市営住宅が当る事はありませんでした。

母は、引越しの為、長めに里帰りしていました。

出産1ヶ月が経っても、腹痛が収まることがなく、1ヶ月検診でだ子宮内に胎盤などの一部がまだ残っているのがわかり、掻爬(そうは)を受けたそうです。


その後、母は海の家に戻りました。

初めてのお産で、頼る人もおらず、とても不安だった母。

胸はパンパンに張って、勢いよく乳が噴き出してしまい、むせながら私は飲んでいたそうです。

苦しそうだったと母は言います。
そして、勢いが止まってしまうと、それ以上は出ず、足りないのか、私はよく泣いたそうです。
せっかく飲んだ乳を、勢いよく吐いていたと言います。

ミルクは嫌がって飲んでくれず、どうすればいいのかわからぬまま過ごした母。


私は、小学校高学年頃まで、何度も、何度も見た、鮮明で恐い夢を見ていました。
空から何かが降ってきて、3つ数える間に、それを食べつくしてしまわないと死んでしまうという夢でした。
夜中にうなされ、目が覚めるのです。
どうしてこんな夢を、何度も見るのかとても不思議でした。
もしかしたら、前世で戦争を味わったのか?
雪崩に巻き込まれたのか?土砂崩れに巻き込まれたのか?
そう考えていました。


私の悪夢の中の、空から降ってくるものは、母の母乳だったのではないか?
そう思うと納得が出来るのです。
ほんの一瞬噴出すように溢れ、飛び散る母乳を飲み干さない限り、私は空腹でたまらないのです。

私自身、生きる為に必死だったのかもしれません。


本当によく泣く子だったと母は言います。

育児ノイローゼで、赤ちゃんを殺してしまうニュースを見て、私もそうなりそうだったと・・・・・・・
当時、すでに課長職だった父は帰りも遅く、その後寝ている私を起こしてお風呂に入れていました。

空腹でやっとの思いで眠りに付いた私は、夜中近くに起こされ、お風呂につけられていたのです。

泣き喚いて当然かもしれません。

でも、相談相手もいない母にとっては、どうすればいいのかわからなかったのでしょう。

私を抱いて、おろおろとするばかりであったのではないかと思うのです。


私の子育てしながら、家事は完璧にこなしていたのでしょう。

母の喜びは、洗濯物が白くなったことや、部屋の床がピカピカしていることだったといいます。

高校生の頃、バスに乗っての研修の帰り、友達に

「今日は、楽しかった?」と聞かれ、楽しいという言葉の意味がわからなかったと言います。

それまで、楽しいとはどういうことなのか感じたことがなかったのです。


ひと気のない海の家で、母は泣き止まぬ私を抱え、孤独だっただろうなと思います。

何をどうすればいいのかわからぬまま過ごしたのだろうなと思います。

父と母の出会い

母は5人兄姉妹の末っ子に生まれました。

母は、自分のことを「ついでの子」だったとそう言います。

祖父は、時計宝飾店を営んでしました。

とても腕のいい職人だったそうですが、戦争中金属は全て武器を作る為に回収され、戦後はスーパーなどが次々と出来、だんだんと状況は悪くなったようでした。


元々、地主の娘だった祖母。

女学校では、みんながわらじを履いているのに、一人編み上げの靴を履いていたそうです。

祖父は、早くに両親を亡くし、祖父母に育てられ、小さいうちから奉公していたと聞きました。

そんな祖父のことを「可哀想だから」という理由で結婚した祖母。


他の兄姉達は、比較的暮らしの良かった時に生まれ、母が生まれた時には、貧しい生活になっていたと言います。

腕の良さで、大手から引き抜きの話があっても、職人気質の祖父はそれを受けようとはせず、商売が上手く行かないことを理由に、酒におぼれたそうです。

普段は、物も言わないようなおとなしい祖父が、酒を飲んで暴れているのを見て育ったと母は言います。

学校帰り、祖父が酒に酔って、道端に眠っているのを見て、恥ずかしかったと言います。

その言い争っている姿が、嫌で嫌でたまらなかった、その声が聞こえると息を潜めていたと言います。


そんな祖父の仕事を手伝いながら、親子喧嘩を繰り返していたという長男。

自衛隊員として、家を出てしまった次男。

体の弱い夫と結婚し、宗教にはまってしまった長女。

親の反対を押し切り、祖父と同じよう生い立ちの夫と結婚し、DVを受け続けた次女。

そんな兄や姉を見て母は、親を困らすことは止めようと、子どもの時からいい子で親を困らせないようにしようと振舞っていたと言います。


私自身がACというよりも、母そのものがACの典型です。

小学校の時から、子どもらしくない子どもと言われていた母。

成績優秀な兄姉達に比べ、自分は劣っていると自らレッテルを貼り、代わりに困らせないようにしてきたそうです。

中学校卒業後、看護婦になりたくて、親に内緒で試験を受けようとし、祖母に見つかって断念したという母。

親の気に入った相手ではないと結婚しないと決め、相手は、お酒を飲まない人、言い争いはしないなど、自分自身にたくさんの決め事を持っていたという母。

自分自身を捨て、いい子でいることだけを心がけてきた母。

誰よりも、祖母の愛情を求めていたのかもしれません。


母は、祖父は字が上手くて絵が上手くて、腕のいい時計職人だったと言います。

祖父のことを嫌いながらも、本当はどこかで愛すべき父親であることを願っていたのかもしれません

母のこと

母は5人兄姉妹の末っ子に生まれました。

母は、自分のことを「ついでの子」だったとそう言います。

祖父は、時計宝飾店を営んでしました。

とても腕のいい職人だったそうですが、戦争中金属は全て武器を作る為に回収され、戦後はスーパーなどが次々と出来、だんだんと状況は悪くなったようでした。


元々、地主の娘だった祖母。

女学校では、みんながわらじを履いているのに、一人編み上げの靴を履いていたそうです。

祖父は、早くに両親を亡くし、祖父母に育てられ、小さいうちから奉公していたと聞きました。

そんな祖父のことを「可哀想だから」という理由で結婚した祖母。


他の兄姉達は、比較的暮らしの良かった時に生まれ、母が生まれた時には、貧しい生活になっていたと言います。

腕の良さで、大手から引き抜きの話があっても、職人気質の祖父はそれを受けようとはせず、商売が上手く行かないことを理由に、酒におぼれたそうです。

普段は、物も言わないようなおとなしい祖父が、酒を飲んで暴れているのを見て育ったと母は言います。

学校帰り、祖父が酒に酔って、道端に眠っているのを見て、恥ずかしかったと言います。

その言い争っている姿が、嫌で嫌でたまらなかった、その声が聞こえると息を潜めていたと言います。


そんな祖父の仕事を手伝いながら、親子喧嘩を繰り返していたという長男。

自衛隊員として、家を出てしまった次男。

体の弱い夫と結婚し、宗教にはまってしまった長女。

親の反対を押し切り、祖父と同じよう生い立ちの夫と結婚し、DVを受け続けた次女。

そんな兄や姉を見て母は、親を困らすことは止めようと、子どもの時からいい子で親を困らせないようにしようと振舞っていたと言います。


私自身がACというよりも、母そのものがACの典型です。

小学校の時から、子どもらしくない子どもと言われていた母。

成績優秀な兄姉達に比べ、自分は劣っていると自らレッテルを貼り、代わりに困らせないようにしてきたそうです。

中学校卒業後、看護婦になりたくて、親に内緒で試験を受けようとし、祖母に見つかって断念したという母。

親の気に入った相手ではないと結婚しないと決め、相手は、お酒を飲まない人、言い争いはしないなど、自分自身にたくさんの決め事を持っていたという母。

自分自身を捨て、いい子でいることだけを心がけてきた母。

誰よりも、祖母の愛情を求めていたのかもしれません。


母は、祖父は字が上手くて絵が上手くて、腕のいい時計職人だったと言います。

祖父のことを嫌いながらも、本当はどこかで愛すべき父親であることを願っていたのかもしれません。

寂しい気持ち

人はどんな時に 愛を求めるのだろう


どうやっても 埋めようもない寂しさを


身を切るような 悲しみを


紛らわすことの出来ない そんな夜



人は足りない何かを 持っているから


それを埋めようと 一生懸命になれたり


頑張ろうという気持ちになるのかな



もしそうだとしたら この寂しさを


しっかりと抱きしめていよう


大切な気持ち 失くしてしまわぬように



父のこと

父は、5人兄弟姉妹の4番目に生まれました。

父は3歳くらいの時、たき火の火が、着物の袂についたのが原因で、重症のやけどを負いました。

このやけどが原因で、2回の入院生活を送り、中学校は1年遅れているという話でした。

定年前にも、このやけどが原因で、移植手術をしています。


父の妹には、障害がありました。

その障害については、誰も詳しく知りません。

昔のことなので、兄弟にすら隠していたのでしょう。

私から見ると、ポリオによる軽い脳性マヒに感じました。


祖父は、父が中学生の時に、亡くなりました。

ある秋分の日、お風呂に入ったまま、帰らぬ人となったそうです。

祖母は、働きに出掛けました。

結局、祖母は70歳くらいまで働いていました。


一番上の姉に助けられながら、父は働きながら高校へと進みました。

一時は諦めた大学も、働きながら通いました。

父にとって働くことは、生きることの全てだったのかもしれません。


ずっと働き続けた祖母。

そんな祖母の苦労を見て育った父は、怠けることなんて出来なかったことでしょう。

「働くことは、はた(傍にいる人)を楽にすること。」

父はそんな風に、言い続けていました。

本当は、祖母のことを楽にしてあげたいと、ずっと願っていたのかもしれません。


父の姉は、洋裁をし、家計を助けていました。

長男は木工所を開き、次男は公務員で婿養子に・・・・

妹も、死を迎えるまで、ずっと鶴を折り続けていました。

みんな器用で、物作りが大好きです。

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