キャンディ・キャンディ
3年生の時の担任は、臨時採用の男の先生で、いわゆる産休の代替先生でした。
いつもギター片手に、即興で作詞作曲をして歌っていました。
歯が抜けた男の子の歌を作ったり、いつもにぎやかでした。
私は、自分の顔が嫌いでした。
そばかすやほくろが多くて、それを男の子によくからかわれていました。
そんな時、先生が
「そばかすがある子は、将来美人になるんだよ。」そう言ってくれました。
歌まで作ってくれました。
そしてその頃、「キャンディ・キャンディ」が流行りました。
同じようにそばかすのある孤児である女の子が、色んな出来事にくじけることもなく、たくましく生きていく姿に胸を打たれました。
私にとって、憧れの女の子でした。
小遣いを貯めて、連載されていた「なかよし」を買っていました。
3年生のお別れ会の時には、自分で絵を書いて紙芝居を作りました。
キレやすい子
小学3年生の自習の時間、ある男の子と喧嘩になりました。
喧嘩のきっかけは覚えていません。
でも、いつも曲がったことが許せなくてトラブルを起こすことが多かったので、自習時間なのに真面目にしていない男の子に対して、注意したのがきっかけなのではないかと思います。
つかみ合いになり、男の子のシャツのポケットを掴むと、びりびりと破れました。
その後、腹を立てて、椅子を投げました。
怒りで投げてしまった椅子は、窓ガラスの方に飛んでいきました。
割れたらどうしよう。
「どーん」大きな音を立てただけで、窓ガラスは割れませんでした。
クラスの皆がいっせいに私を見ました。
我に返ったとき、どうしようという気持ちでいっぱいでした。
男の子の服を破ってしまったこと、椅子を投げてしまったこと。
いつ母の耳に入るんだろう、そう思いました。
でも、自分の口からは決して母に言うことが出来ませんでした。
母には、学校であった出来事を良く話していました。
でも、自分の悪いこと、悲しい出来事は話すことが出来ませんでした。
お母さんを守りたかったの に・・・・・・
小学2年生の夏休み。
2件隣の1年生の女の子と一緒に学校のプールに出掛けました。
その帰り、私はとてもしんどくて、バスに乗りたくなりました。
何かあった時のために、バス代30円をいつも持っていました。
私はバスに乗るからと、その子だけを置いて帰ることも出来ませんでした。
私が、1年生の時、母は私のバス代を払わなかったことがありました。
たまたま小銭がなかったせいかもしれません。
私は「お金あるからバスに乗ろう。」その子に言いました。
降りる時、大人の後ろについて降りて30円だけ入れて降りました。
ドキドキしていました。
でも、運転手さんにも何も言われずに安心しました。
数日後、母とその子のお母さんが話していて、
「この間、バスで帰ったらしいね。」母は私にそう言いました。
「お金、どうしたの?」と聞かれました。
もし、本当のことを言ったら、悪いお母さんだと思われてしまう、そう思いました。
ドキドキしながら「60円持っていた。」そう答えました。
夕方、家に帰ると、母にもう一度質問されました。
「60円どうしたの?」
「本当は30円しか持っていなかった。」私は答えました。
「嘘をつく子は、うちの子ではない。」そう言われ、家を出され、鍵を締められました。
自分の本当の気持ちを言うことも出来ませんでした。
玄関の郵便受けから手を入れると、鍵は簡単に開きます。
トイレの窓から入ることも出来ます。
でも、出来ませんでした。
行く所もありませんでした。
近くにあった材木置き場の横の空き地に、ただ立ち尽くしていました。
お母さんを守りたかっただけなのに・・・・そう思いました。
なんで判ってもらえないんだろう、悲しくてたまりませんでした。
抱きしめてあげるね
お姉ちゃんだから って言われて
妹を欲しがったのは あなたでしょう って言われて
甘えたい気持ち 飲み込んで
抱きしめられたい気持ち 押し殺して
頑張ってたよ 5才の私
同じように弟が生まれた 5才の次女が
私に甘えたり ヤキモチ妬く姿を見て
そんなのおかしいよ 大きいのに
お母さんは そんな風じゃなかったよ って
母は 次女に 言ったけど
ホントは ホントは 私だって
あんな風に 素直に 甘えたかったよ
私をだけを見て って言いたかったよ
そんなずっと 満たされない気持ちが
心の中に ぽっかり空いて
埋めようとしても 埋めようとしても
埋まらないんだよ
お姉ちゃん そうやって 呼ばれた日から
私の心は 止まっているの
本当の気持ち 受け止めて欲しくて
泣いているの
不安でたまらない心 抱きしめて欲しくて
求めているの
何もかもが 変わってしまって ついていけなくて
置き去りにされた私
部屋の片隅で 一人遊びして
私は何を空想していたんだろう
ごめんね まだ 私
5才のあなたのこと ちゃんと受け止めてあげてないよ
でもね あなたが 頑張っていたことは
わかってあげること出来るから
抱きしめてあげること出来るから
いっぱい 泣いてもいいよ
泣いたらおかしいなんて 言わないよ
もう 頑張らなくていいよ
おねえちゃんなんて 呼ばないから
小学校1年生
私の仲のいい友達は、お母さんが働いていたので、留守家庭子供会に入っていました。
校舎の脇のプレハブの教室で、放課後を過ごすのです。
なんだか楽しそうで、うらやましかったです。
学校までは、1.3kmでした。
田舎の子どもからすると、わずかな距離らしいのですが、子どもの足では、長い距離でした。
しかも、帰りは坂道なので、学校に行くだけで疲れてしまいました。
私はよく気分が悪くなって、教室の隣にある保健室によく行っていました。
ベットに横になると、安心していました。
家には、父の会社の人がよく来ていました。
野球をしていたのでその仲間が遊びに来ていました。
人が来ると、我が家は明るくにぎやかでした。
父は、子供会のソフトボールの指導をしていました。
そのせいもあって、高学年の男の子もよく家に遊びに来ていました。
でも、私はそれが嫌でした。
近くに住む上級生から、おもらしをして、怒ったお母さんがおちんちんを紐で縛り、腐って落ちてしまった話を聞きました。
きっと、私も男の子だったのに、そうやって女の子になったのかもしれないと思いました。
先生は、年配の厳しい先生でした。
給食を残したり、宿題を忘れると、竹の棒を持っていてそれで足を叩くのです。
私は、好き嫌いもなかったし、宿題を忘れることもありませんでした。
夏休み、私はまた怪我をしました。
当時は、学年、性別を問わず、真っ暗になるまでよく遊んでいました。
石につまずいて転び、額の生え際を石で切りました。
石の角が赤く染まり、血がポタポタと落ちました。
母は、慌ててタクシーを呼び、患部をタオルで押さえ病院に行きました。
黒っぽい血が顔中に流れ、母は気絶しそうになったといいます。
二針縫う怪我でした。
絵画コンクールで受賞しました。
カセットテープから流れる話を聞きながら、大きなひまわりの絵を描きました。
紙からはみ出すくらいの大きな3つのひまわりの花。
空想の大好きだった私にとって、想像しながら書くことはとても楽しいことでした。
母は、自分の思っていた通り、私の絵の才能が認められたことをとても嬉しそうにしていました。
母は、私が何かで認められることを、自分のことのように喜んでくれました。
ただ、直接には私を褒めることをしませんでした。
私が母を喜ばせるには、私が誰かに認められる必要があったのでした。
誕生日、男の子二人と女の子一人を呼んで、誕生日会を開いてもらいました。
ホットケーキで作ったケーキが一人一人に準備され、とても嬉しかったです。
母は、手作りのおやつを作ってくれていました。
あの頃、それを食べるのが楽しみでもありました。
入学
ランドセルは、父方のおばあちゃんに買ってもらいました。
まだ夏でランドセルが売り出されていなかったのに、お金を貰ったからその足で、田舎のスーパーに出かけたそうです。
倉庫から出された売れ残りの物の中から選ばなければいけなかったそうです。
誰も、今ランドセルは売り出されていないから、またの機会になんて考えもしなかったのです。
その頃、クラリーノが主流だったのにも係わらず、皮製の重いランドセルでした。
みんなのはピカピカしているのに、ざらざらのつぶれた形のランドセル。
でも、私も何も言いませんでした。
学習机も、父が学生時代に使っていたお古でした。
電気スタンドと椅子を新調してもらいました。
友達の家で見た、ぴかぴかのキャラクターのついた机。
うらやましくてたまりませんでした。
でも、私は、やっぱり何も言うことが出来ませんでした。
でも、嬉しい贈り物もありました。
36色のクレヨンでした。
今までの12色のものとは違って、きれいな色がたくさん並んでいました。
その色を眺めているだけで、幸せな気持ちになりました。
その色を見ているだけで、わくわくとした気持ちになりました。
私にとっては、最高の贅沢でした。
小学校の入学式。
教室では、先生に一人一人名前を呼ばれました。
「いい返事だね。」と褒められ、
「みんなもこれくらいの声で返事をするように・・・」と言われ、何度も返事をさせられました。
母はとても嬉しそうでした。
私が褒められたことを、自分が褒められたかのように、意気揚々としていました。
空想
その頃、私が一番良く遊んでいたおもちゃは、椅子でした。
プラスチック製の丸いフォルムの子供用の座椅子で、鉄製の足が付いていました。
その椅子を、裏返したり横にしたりして、私は空想の世界を楽しんでいました。
(ビリボ にちょっと似ています。)
前の幼稚園の先生からもらった人形は、まつげをはさみで切ってしまっていました。
あの頃、はやったりかちゃん人形。
友達はたくさん持っていたけれど、私が持っているのは、りかちゃんではなくて他の人形、一体でした。
きらびやかなドレスは無かったけれど、母が何枚か手作りしてくれました。
家の前は、まだ舗装されていなくて、砂が敷き詰めてありました。
まだ、排水の溝があって、大人たちは、その砂が溝に落ちるので嫌がっていましたが、子どもにとっては楽しい遊び場でした。
海の砂だったので、たくさんの貝殻が混ざっていました。
袋小路になっていたので、家の前は車が通ることも無く、砂で遊んでいると、海辺にいるようでした。
私にとっては、海は大切な場所、そんな気がしていました。
もしかしたら、赤ちゃんの時の記憶が残っていたのかもしれません。
引っ越してきて、海が見たいといった私。
なにか私の心の中で、海に求めるものがあったのかもしれません。
怪我、病気
春の遠足。
私の足は傷だらけでした。
たくさんの絆創膏が貼られていました。
お弁当を食べながら、
「そそっかしいから、次々と転んで怪我をして、化膿して治らないの。」
友達のお母さんに、母は話していました。
小学校入学前検診で、鼓膜が倒れかけていて、聞こえにくいことが分かりました。
通院が始まり、その後中耳炎にもかかりました。
とてもひどい症状だったようで、突然耳を痛がり、吐き始めるといった症状で、タクシーで病院に何度が連れて行ったといいます。
タクシーの中で、吐き気が襲ってきたことを覚えています。
繰り返される治療・・・・・
結局、なかなか治らず、転医しました。
中耳炎は、治ったものの、鼓膜の治療は1年くらい続きました。
この頃の私の中の記憶は、私と母だけです。
山の中腹に住んでいて、ほとんど徒歩で行動していました。
まだ小さかった妹は、どうしていたのか分かりません。
妹は、そこに一緒にいるはずなのに、私の記憶の中から抜け落ちています。
幼稚園の帰り道、坂の下にある食料品店に寄りました。
途中で、母の姿が消えました。
お店の人に聞いても、
「帰ったんじゃないの?」って言われてしまいました。
私が、お母さんの傍を離れたから、置いて帰られたんだ、そう思いました。
坂道を駆け登り、必死に家に向かいました。
でも、家には鍵が掛かっていました。
そして母の姿は見えませんでした。
しばらくすると母は帰ってきました。
母は、まだあの時、お店の中にいたのです。
どうして私は、先に帰られたんだって思ってしまったのでしょう。
待ってくれているという安心感を持っていなかったのは何故なんでしょう。
妹が欲しい
祖父(母の父親)の法事の席で、お坊さんに
「妹が生まれてくるように、おじいちゃんに頼んでください。」とお願いしました。
周りの友達には、弟や妹がいて楽しそうでした。
妹が、欲しくて欲しくてたまりませんでした。
妹がいたら、どんなに楽しいだろうか・・・・私は思いました。
母は、私の育児に疲れ、子どもは一人でいいと思っていたらしいのですが、私のこの言葉に心を揺らし、もう一人生もうと決心したそうです。
そして、母は妊娠しました。
私が、4歳5ヶ月の8月、3度目の引越しをしました。
仲の良かった男の子とお別れをして、幼稚園の先生は駅まで見送りに来てくださって、私に緑色の服を着たお人形をプレゼントしてくれました。
引越し先に着くと、海がありませんでした。
海のすぐ近くに住んでいたのに、寂しくなりました。
「海が見たい」私は言いました。
父は車で、近くにある海に連れて行ってくれました。
母と手をつなぎ、道路から階段を下りていると、私は滑って転びました。
母も一緒に階段から落ちました。
半ズボンを履いていたのだと思います。
足のももの辺りから擦り傷だらけになりました。
母は、妊娠6ヶ月でした。
そして、年中の夏休み明け、私は新しい幼稚園へ転園しました。
お寺が運営している仏教系の幼稚園でした。
毎週決まった曜日に、講堂に集まり手を合わせました。
赤い絨毯が敷かれていました。
トイレに行きたくてたまらないのに言えず、漏らしてしまいました。
新しい幼稚園では、ハーモニカを吹いていました。
子供用の小さなものではなく、2段になったハーモニカでした。
途中から入園した私は、ハーモニカを吹くことが出来ませんでした。
めちゃくちゃに吹きながら、その時間が終わるのをひたすら願っていました。
友達には、すでに友達がいて、みんなの後ろを追いかけていました。
ある日、トイレでみんな男便器で、立ちしょんをしました。
次々と上手にしていました。
でも、私は出来ませんでした。
12月、妹が生まれました。
産まれたという連絡が入った後、出掛けようとすると父の車はパンクしていたそうです。
そのせいで、病院に行くことは出来ませんでした。
妹が生まれた後のクリスマスには、サンタさんが来ませんでした。
楽しみにしていたのに朝起きても、枕元には何もありませんでした。
「どうして、サンタさんは来なかったの?」私は父に聞きました。
「お母さんがいなくて、部屋が汚かったから。」父はそう答えました。
父方の祖母と手をつないで駄菓子屋さんに行き、50円のお菓子を買ってもらいました。
その時のことを、母は腹が立って仕方がなかったと言います。
でも、母は父を責めるようなことはしていないと思います。
たぶん、そのことを打ち明けることなく過ごしていたのでしょう。
私が生まれた初めてのクリスマス、母方の祖母がクリスマスツリーを買ってくれたそうです。
カトリック系の幼稚園に通っていた母にとって、クリスマスは大切な行事だったのか、貧しかったけれど何か良い思い出があるのか、とてもクリスマスを大切に思っているところがありました。
妹は、1ヶ月検診で斜頸と言われたようで、整形外科にリハビリに通っていました。
1kmちょっとある病院まで、母は妹を抱っこして歩いて通っていたと思います。
長い間、病院に通っていたことは覚えているのですが、私は、この頃の妹のことを思い出すことが出来ません。
私の傍には、欲しくてたまらなかった妹がいたはずなのに、嬉しかった記憶も、赤ちゃんの存在も私の中にはないのです。
私が、怪我をしたのはその頃だったのかもしれません。
幼稚園のジャングルジムの高いところに鉄棒がついていて、私はその棒で目と目の間を強打しました。
幼稚園から自宅まで800mくらいありました。
ほとんどが登り坂でした。
私は「大丈夫」と言って一人で家に帰りました。
見る見る間に、腫れていったのでしょう。
帰りの道で、出会った友達のお母さんに、アロエを貼ってもらいました。
やっとの思いで、家に辿り着きました。
その後は、吐いては寝て、吐いては寝てを繰り返していて、父は早退して私を病院に連れて行ったそうです。
レントゲンの結果では異常なしだったそうですが、その状態が続いたようです。
大怪我をしたのに一人で帰らせたことや、怪我をした時の状況説明が私の言い分と違っていたことで、母は転園先の幼稚園に対して反感を持ったようでした。
担任の先生の家は、すぐ近くだったのにも係わらず、私の容態を気にすることさえしなかったようです。
「あの先生は非常識だ。前の園では、何かあるとすぐに来てくれたのに。
引越しの時も、駅まで見送ってくれたのに・・・・・」と幼稚園を休んでいる私に、愚痴をこぼしていたのを覚えています。
愛情
私は両親からいっぱい愛をもらったよ
それなのに苦しくなるのはなんでだろう
自分を殺し 犠牲にし
子どもを育ててきた両親
どこが悪い??
私だって そうすることが
当たり前だと思って
子どもを育ててきたよ
でも 自分を殺せば殺すほど
苦しくなるのは 当たり前
だって 人間だもの
甘えたい時や やりたくないことだってある
親だから 我慢しなくちゃいけないこともあるかもしれない
だけど 親である前に 人間だから
苦しい思いは伝わってくる
我慢してる気持ちは伝わってくる
一生懸命 愛を注いでくれたけれど
きっと それも伝わってきちゃったんだね
子どもだって 苦しんでる親の姿みたら
苦しいんだよね 息が出来ないんだよね
だから もう頑張るのはやめるよ
大好きだってその気持ち 伝わればいい
無理しなくたって 出来そこないの母親だって
子どもはちゃんとわかってくれるはず
心の気持ちを しっかり伝えれば
愛されてるって気付くはず
もう 誰のことも責めたりしないよ
不安な気持ちを 取り除いてあげる
あなたが大きくなるのを
ちゃんと見守っているから・・・・・・
私が自信を持っていえること
あなたのことを愛してる