Another Story ~アダルト・チャイルドの成長記録~ -2ページ目

最初の妹の記憶は、小学2年生の時。

妹は3歳。

遊びに来た男の子が、指人形をはめて妹と遊んでくれた。


私はその男の子のことが好きだった。

3年生になってクラスが別々になった時、妹が描いたその男の子の絵を持っていき、妹が遊んで欲しいと言っていると伝えた。

本当は、私が遊びたかっただけなのに・・・・・・・


海を見て、

「バスクリンが入っているみたい。」

犬の糞を見て、

「犬もオムツすればいいのにねぇ・・・・」

そんな言葉を、みんなが笑った。

妹のそんな表現をみんなが褒めた。


私が4年生の時、幼稚園に入園した妹。

人見知りがひどくて、泣いてばかりだった。

そんな妹を、母はすごく心配していた。

幼稚園が慣れるまでの間、先生から妹は飴を貰い、食べないまま持ち帰り、一つを私にくれた。

母がそれを見て、妹のことを褒めた。


幼稚園の発表会。

妹はナレーションの役をもらい、長いセリフを覚えていた。

それどころか、みんなのセリフ全て・・・・・

それを誇らしげに毎日、毎日繰り返していた。

それを見て、やっぱり母も誇らしげ。

すごいねと褒めてばかりだった。

私が幼稚園の時は、おむすびころりんの話のねずみの役だった。


私が5年生の冬休み、母に頼まれて耳鼻科へ連れて行った。

山を降り、国道を渡って、バス通りを通り、大きなドブの脇を通った。

隣の小学区だったから、2キロくらいあっただろう。

私は、しっかり手をつないだ。

妹の手はちっちゃくて、守ってあげないといけないそう思った。

ドブに泡が浮いていて、キラキラ光った。

「コメットさんみたいだねぇ・・・・」妹に話しかけた。

待合室で、クリスマスのプレゼントにもらった毛糸で編み物をした。

「妹を連れてきてえらいね。」

「上手だね。」

おばあちゃんたちが、褒めてくれた。

なんとなくくすぐったかった。


6年生の時、妹が入学した。

やっぱり母は心配した。

最初の遠足で、妹は6年生の男の子と一緒だった。

母に言われて、何度も妹の様子を確かめに行った。


成績表をもらって帰って見せた時、母は私のを見て、

「もう少し頑張りなさい。」そう言った。

そして妹には、

「よく頑張ったね。」そう言った。

でも、私のほうが成績がよかった。

悲しかった。

それを告げると母は言った。

「あなたはもっと頑張ることが出来るから。」

ギャップ

私の心の中に存在する私と


過去を振り返って、客観的に見た私


とても大きなギャップが生まれてきた




ずっとお母さんを困らせている悪い子


そう思い続けていたよ


でも、いい子だったじゃん




子どもの心 押し殺して


いい子でいようと 一生懸命だったよ




辛い悲しい出来事も


お母さんを悲しませた 悪い記憶として


心に沈ませていたよ




いらない子なんだって 気持ちを


消すことも出来ないまま


大人になってしまったよ




でも 結局 それは お母さんと同じだね


子どもらしくない子どもだった


いらない子だった


そうやって思って育った お母さんとまったく一緒




知らない間に連鎖しちゃったんだね


あんなに一生懸命 愛してくれていたはずなのに


頭では 愛されていた そう思っていても


心の中では 満たされない思いで いっぱいだったよ




そのことすら 私は 辛かったよ


頭と心のギャップが


ずっと胸を痛めてたよ




あんなに辛くても ちゃんと乗り越えて


生きてきたよ




今は 辛かった過去にこだわるよりも


こうやって生きてきた自分を


よくやったねって 認めてやろう




辛かった私 可哀相な私ではなくて


行きづらくても 死にたくても


こうやって頑張ってきたそれだけですごいじゃないの




そして お母さんから 無意識に引き継いだ感情を


もう 子ども達に それに続く未来の子ども達に


繰り返さなくて済むように


私は 歩んでいこう




惨めな過去じゃない 頑張った過去


そう記憶を塗り替えて


ギャップは いつか融合していく


新しい記憶として・・・・・・・・・・・・・

自傷

小学6年生の時、私はフエルトでマスコットを作るのに夢中でした。

こうやって作ることが大好きで、将来は手作りのものを販売する店を開きたいと思っていました。


お別れ会か何かでプレゼント交換する機会があり、私はマスコットを作りました。

そして、お別れ会で自分が手にしたプレゼントは、私とまったく同じマスコットで、私が作ったものよりも随分下手でした。

私は、そのことが不満で、家に帰ってからもぐずぐずといい続けました。


それを見かねた父が、

「いつまで、ぐずぐず言うのか!!」と私の頬を叩きました。

痛さで、絨毯の上に、突っ伏していると、口の中が切れたのか、血が流れ絨毯を汚しました。

その絨毯は、父がこだわって購入した、少し豪華な絨毯でした。


血で汚れた絨毯を見た父は、

「何をしてる。」と私を無理やり起き上がらせ突き飛ばしました。

私が怪我をしていることよりも、絨毯の方が大切なんだ、私はいらない子なんだ・・・・・そう思いました。


母の鏡台の開き戸に、母が顔を剃るのに使っているカミソリがあるのを知っていました。

私は、そこからカミソリを取り出し、キャップをはずしました。


震える右手でカミソリを持ち、左手首に当てました。

一生懸命切ろうとしても、手は振るえ、滲んだ傷が出来るだけでした。

もう一度、力を入れて切りました。

でもやっぱり同じでした。


その光景に気が付いた母が、飛んできました。

泣きながら、その二本の傷に絆創膏を張ってくれました。

ただ、母は泣くだけでした。

母を悲しませてはいけないと思いました。


でも、本当はそんな気持ちにさせた父のことを怒って欲しかった、守って欲しかった、そう思いました。

新聞配達

私が、小学3年生の頃、母は新聞配達を始めました。

きっかけは、父が祖母に仕送りをしたいと言ったことだったそうです。

引越しが多く、父の付き合いも多く、貯金も出来ない状態だったと母は言います。

父はやけどを負って、迷惑掛けて少しでも恩返しをしたい思いでいっぱいだったのだと思います。


まだ、妹が3歳で、母が選んだのは新聞配達でした。

たまたま、近所に住む私の同級生のお母さんがしていたこともあり、やってみようと思ったらしいです。


私は、長期休みになると、母の新聞配達を手伝っていました。

早朝の澄み切った空気は、母が言うように気持ちよかったし、母を独り占めに出来る唯一の時間でもありました。

母はとても優しくて、

「次は、あそこの家ね。」と配達していると、母を助けているそんな気がして嬉しかったです。


たまに、目が覚めると、土砂降りや雪で母がいない時がありました。

「なんで起こしてくれなかったの?」責めよる私に、

「雨が降っていたからね。」そんな風に言っていました。

一番大変な時に手伝えないこと、寂しく思いました。


小学校を卒業するまで、私は手伝い続けました。

眠いから、今日はやらない、そんな日はありませんでした。

少しの間、母が配っていた乳酸飲料の配達は、完全に私に任せてくれて、学校から帰っての私の仕事でした。

立派に役に立っていること、とても誇らしく思っていました。

サンタクロース

サンタクロースがいないってことを知ったのは、小学5年生の時だったと思います。

友達に、サンタクロースはいないんだよって教えられた時は、本当にショックでした。

母にそのことを話すと、買っていたプレゼントをこっそり見せてくれました。

妹はまだ気が付いていませんでしたから、母と二人の秘密を共有したような、大人になったような複雑な気持ちでした。

でも、もうサンタクロースを信じることが出来なくなったこと、とても寂しかったです。


その年のプレゼントは毛糸でした。

私は、その毛糸を使って鉤針編みで座布団カバーを作りました。

そしてお正月の帰省の時、両方の祖母にプレゼントしました。

私へのプレゼントは、そのまま手を加えられ、祖母へのプレゼントになったのでした。


それでも、毎年枕元にプレゼントが届けられました。

サンタクロースがいないとわかっていても、やっぱりわくわくしました。

長い間、そうしてくれたこと、それは母からの素敵なプレゼントです。

出逢い

小学5・6年生の時の先生は、私にとって運命の人だと思っています。

この先生との出逢いがなかったら、もしかしたら今の私はいなかったかもしれません。

私が、頑張っていることを受け止めてくれて、いつも認めてくださり、私のやる気と好奇心を引き出してくださいました。


漢字練習も、先生に認められたい一心で、何枚ものノートを書いていったり、自由勉強も必死でした。

そんな私の気持ちをちゃんと受け止め、認めてくださいました。

一生懸命頑張りすぎて、空回りしてしまう私のことを、影で受け止めていてくださっていました。

私にとって、あこがれの先生でした。

5年生のお別れ会では、先生の為に歌を作って、カセットテープに録音して準備をしました。


6年生でクラス替えがあり、仲がいい友達と離れ離れになった寂しさも受け止めてくださっていました。

修学旅行で、私は歌のしおりを作りました。

クラスの為に、一生懸命動いていました。


教職から離れて、何年も経っているのに、私が高校を合格した時も、お祝いの電話までくださった先生です。

こうやって、2年間見守られて育ったことは、私の中で大きな財産となっていると思います。


6年生で書いた「おいたちの記」の中で、私はこう書いています。

”私の希望は、心をきたえてどんなことにも、たえぬいていく。というただ一つです。(略)

心をきたえてなくて、もしいやなことがあったら、他人に押しつけたりしてきらわれたりしたくないからです。

いやなこと、つらいことがあると思うけどそれをたえぬいてこそ、心がきたえられていくんだと思う。”


11歳の書いた私の希望、これを叶える為には、まだまだ耐えなければいけないのかもしれません。

ピンクレディ

私が、小学校高学年の時、ピンクレディが流行っていました。

みんなが振り付けを覚えて踊っている中で、いつも私は見ているだけでした。

何故か、一緒に踊ることが出来ませんでした。


バレエを習っていた時もそうでした。

自分を上手く見せることが出来ませんでした。

練習して上手くなることも、なぜかしら恥ずかしい気持ちになりました。

私が、上手く踊ることはいけないことのように感じていました。

指先をきれいに伸ばして、役になりきることは、なんだか格好をつけているみたいでしてはいけないように感じました。

踊っていることは好きだったけれども、そんな風に上手に踊ろうともしなかったので、すぐに辞めさされてしまいました。

私の気持ちを確認することなどないまま、発表会が終わったら辞めることを決められていたのでした。


みんなが手遊びしている時も、いつも見ているだけでした。

楽しそうに遊んでいる、そこに自分が入れないような気がしました。

どうして、そんな風に感じていたのかは判りません。


今思えば、本当にピンクレディが好きだったのか、どうかも判りません。

みんなに合わせていただけかもしれません。

ただ、友達とファンレターを書いて、手作りのビーズの指輪を添えたことを覚えています。

結局、出すこともなくそのままでしたが・・・・・

いじめ

小学4年生の時、新設校が出来て、学校を変わりました。

クラスにはいじめっ子のこうちゃんと呼ばれる男の子がいました。

いつも誰かにいじわるをしていました。


大人達の言う「こうちゃんは母子家庭だから、そういうことばかりする・・・・・」

そういう言葉は、何か嫌な感じがしました。


すぐに泣いてしまう私は、こうちゃんにとってのターゲットでした。

追い掛け回して、髪の毛を掴んで引っ張るということを繰り返されていました。


誰かが、守ってくれるときもあったような気がするし、いつも泣いてばかりいる私のことを、少し軽蔑的な目で見るクラスメイトもいました。

上靴に、犬の糞を入れられたこともありました。


嫌なことがあっても、学校で一日中泣いていても、私は学校に通っていました。

朝になれば、学校に行くのが当たり前でした。


私の記憶の中で、そうやっていじめられらことは悲しいこととしてあまり残っていません。

それよりも、そうした悲しい気持ちを打ち明けることが出来なかったという記憶の方が強いのです。

たぶん、家ではいじめっこのことを

「こうちゃんは、私のことが好きだから意地悪するんだって・・・・」と

明るく話し、学校でしか泣けなかったのだと思います。

やいと

母の実家でのことでした。

年末年始やお盆休みの里帰りではなくて、母と私だけの帰省だったと思います。

私に、なしを剥いてくれた祖母。

両手に、なしを持ったとたん、母は手をパシンと払いました。


そのまま母は、私の手を引いて、仏壇のある2階へ連れて行きました。

そして私の手にやいとをすえました。

今まで一度も、そんなことでこんな風に怒られたことはありませんでした。


おばあちゃんにいいところを見せたいから、こんなことするんだ。

私は、そう思いました。


母が怒っている顔も、その時の恐怖感も思い出せません。

ひりひりとする肌。

大きないぼのようなかさぶた。

私の記憶に残っているのは、それだけ・・・・・

ありのまま

ありのままの自分を 受け入れることが出来たら


どんなに楽になれるのだろう


ありのままの自分を 愛することが出来たなら


どんなに強くなれるのだろう




今でもなお そのままでいいよって


誰かに抱きしめられて 愛されることを求めてしまう


いつになったら そんな自分を自分の言葉で


慰めてやることが出来るのだろう




悲しい出来事があるたび 自分のことを責めてばかりいて


悲しい出来事で傷ついた 自分の心を慰めることが出来ずにいる


つらかったねと 悲しかったねと 自ら癒すことが出来ればいいのに


他の誰かが そうやってくれることを 待ち望み 求めてる




私が 私として 存在することを


私が 私として 生きていくことを


いつになったら 認めてやれるのだろう


時々 その存在すら 消してしまいたくなる