私は尼崎の、阪神電車のとある駅前の古びたビルの二階で整形外科医院を営んでおります。
このブログで日々の出来事や思うところを書いてみたいと思います。
私はこの「火花」という小説、テレビに出ているピースの又吉さんが書かれたお笑い芸人が主人公の話ということで、そういった芸人たちの内輪話的なものかと思っていましたが、繰り返し読んだらもっと深いことが書かれていて考えさせられました。
一回目に読んだときにはこの本の主題は、本当の漫才師とは何かということを追い求めこれと信じて一直線に生きている、漫才コンビ「あほんだら」の神谷さんの言動(生き様)を神谷の伝記を書くように託された、同じく漫才コンビ「スパークス」の徳永(僕)の目を通して紹介していった物語かと思っていました。
神谷の言うあるべき漫才師像とは、決して面白いことを想像できる人ではなく偽りのない純正の人間の姿を晒す人、つまり欲望に対し全力で生きる人だということです。このことは、人間一般にも通用しそうな考えのようにも一瞬思いましたが、神谷の行動例えばよく知らない人の酒代まで払ったり、酒を飲むために借金しまくったりすることは、とても無茶すぎて真似できないと思いました。
あと別の発言で、ある新しい方法論が出現するとそれを用いることが邪道だとみなす人がすぐ現れてすぐにまた新しい別の発想へ転じてゆこうとする選択に流れる風潮を、伸び始めた枝を折るのに等しいとして批判し、元の方法論を成熟させることが大切であると言っているのも私は気になりました。成長途中の子供の場合、日常の多くの行動は親や学校の先生の指導を受け入れてゆくことが大切だとは思いますが、成人に近づくのに伴って、神谷が言うように自分の考えたやり方を大切にすることが、特に創造力が必要な分野の勉強や仕事をする人にとっては大事なことではないかと思いました。
こうした神谷の発言に対し、徳永の方は自分でせこくない人間であろうとする意識のほうが勝っているだとか、アンケートの意見が割と気になるとか、まわりの人の自分に対する思いをすごく気にしていたりして、最初はこの徳永の考えは自信がなさそうで正直あまり面白みが無い人だなあと思っていました。
神谷はとにかく、面白いかどうか以外の尺度にとらわれるなとか、阿呆になって感覚に正直に面白いかどうかだけで判断しろとか、とにかく本当の面白さとは何かを極めていった人ですが、だからといって最後に売れなくなってから巨乳手術を受けたのは、なんか私には理解できなかったです。まさに神谷は真正のあほんだらだと思いました。
極端な理想ばかり言って、全然売れない先輩芸人の話が主題で、何が面白い物語なのか私はよく理解できませんでしたが、二回目に読んだときに神谷のこの発言が気に留まりました。「気付いているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」というところです。漫才師の神谷さんの「生き様」を紹介するのが主題のように見えて、実は人間はどうあるべきかという難しい課題を提起したのではないかと思い直しました。
僕(徳永)の発言は、この物語の中では面白くない考え方の代表のような扱いだと思っていました。しかし最後の方で、それまで神谷に色々といわれていた立場だった徳永が、神谷の巨乳手術を受けたことを知っての発言「僕たちは世間を完全に無視することはできない…世間を無視することは、人に優しくないこと」これがまさに徳永にとって面白くないことであり、徳永の考える面白いことはこの逆です。この徳永の考えは神谷とは正反対の考え方だけども、この考え方はこれで私達が共感できる考え方のひとつではないかと思いました。
だからこの小説で最終的に著者が伝えたかったのは、人間は自分にとっては自らの欲望に対し批判を受けようともまっすぐに全力で正直に生きてゆくべきであるが、ただ社会生活を営む一員としては世間を完全に無視することはできないということを、神谷の考える面白いことつまりあるべき漫才師像と、僕(徳永)の考える面白さとの対比で示したということだと思いました。そしてどちらの意見も人間はいかに生きるべきかを考える上で大事な考えだと思いました。
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では
今年見た唯一の打ち上げ花火です@豊岡
