「名色」とは、精神と肉体のことである。精神と肉体がなければ、感覚器官はない、というのも当たり前に聞こえる。

いわゆる感覚器官とは、肉体(客観界)にある、感覚器官から情報が入り、精神(主観界)の境より入ってくる。その間にあるものである。すなわち、情報を捕捉する肉体と受け取る精神がないと意味がないわけで、名色は、六処の前提になるのはわかる。

 

ここでも、前回の記事と同様、渇愛や執着に繋がる情報の捕捉を考えるとすれば、そのような六処から入ってくる情報を、ビデオカメラのようにそのまま捕捉するのではなく、分別し判断することが問題になる。その元になるのが精神と肉体であるということであろう。

 

まず肉体を考えるとしたら、肉体を自分のものと思う「身見」があると、さまざまな生理的欲求、本能的欲求が生まれた時に、それを満たし続けるためのバイアスが、六処に生まれる。

 

次に精神を考えるとしたら、自我の認識(「我見」)があるときに、他人と比較したり他人からの承認欲求を持ったり、物事を分別し、判断する欲求が生まれる、それは結局、頭の中の仮想的な論理展開であり、終わりのない欲の追求である。他人だけではなく、真理に対する探求や知識欲なども同じである。数学者が新しい命題を解こうとするあまりに自殺してしまうのもその無限の分別の連鎖に捕まってしまったからだと思う。

 

また、未来に対して目標をたてて、予測を立てて、演繹的な論理より、物事の分別をする。記憶に頼り過去にこだわって、未来を決めつけてしまう。精神が精神に頼って分別することで、執着の連鎖は絡み合う。そのようなバイアスが、六処にかかることで、ニュートラルなものの見方ができなくなるのだ。

 

自分も自分の体も、自分ではなく自分の外のモノであるという前提に立てれば、全ての入力(外からの入力と自分自身からの内部的な入力)を、ニュートラルに捉えることができる。といっても簡単にできるものでもないが、そうすれば六処に対するバイアスをなくすことができるのかもしれない。

 

ブッダの言葉では名色が滅している様子をこう表現している。