3 大いなる章

3-12 二種の観察

 

「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

 

世の中を物質的領域(色)、非物質領域(識)として、物質領域を諦めて、非物質領域に安住するものは、静まっており、執着から離れているとしている。その考えは、ギリシャ哲学におけるエピクロスの考えとも一致している。ただエピクロスは、物質領域の最低限が保証され、それに満足すれば、自ずと非物質領域に安住し、それにより苦のない人生が送れるとした。

 

エピクロス曰く、

「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」

 

まさに物質領域を熟知しコントロールして、非物質領域に安住することを言っている、中道な考えである。

 

さて、次に「非物質領域」より「消滅」の方がより一層静まっている=苦がないと言っている。そして「消滅」において「解脱する」人々は「死を捨て去った」としている。

 

論理としては、生きて「物質領域」のみならず「非物質領域」を捨て去ると「消滅」になりそれが解脱であるとして、そうすれば、死という苦も捨て去ることができるとしている。ここで考えられる概念は、「空」である。物質的領域、色を忘れるには、色即是空という考え方に乗っ取り、色を諦めることになる。諸行無常・諸法無我である縁起を考えるということでもある。では「非物質領域」を捨て去るとはではなにか?

縁起さえも空である、縁起空、法空ということではないか? これはかなり大乗の考えに則っているが、そう考えれば、縁起空=消滅=解脱=死を捨て去ると説明できる。禅における、四料簡に当てはめれば、「物質的領域」=「境」(客観)で、「非物質領域」=「人」(主観)であり、「境」も「人」奪った、「人境両倶奪にんきょうぐだつ 」が解脱であるということになる。

 

 

以上は、大乗的発想であるが、上座部系からみたら、「非物質領域をも滅却し、消滅させる、法を考え、実践する」ということになるのであろう(法空の否定)。でも、心の中に生きて、倫理的な正しい生き方を追求することさえも、消滅しなさいということであれば、そもそもブッダのいう真理(智慧)を否定することになるから、そうはならないような工夫があるのであろう。