コロナウイルスの件は、垢即浄、浄即垢が当てはまることが多い。

 

垢即浄

最近クラスター感染するのは、閉じた室内空間、よってライブハウスやカラオケBOXなどという報道が多い。そうやって垢(汚いところ)はここだと特定することで、そこに行かなければ安全だという間違った理解を生んでいる。

 

浄即垢

マスクをして咳エチケットをすることが浄であるという通念が出来上がってきた。反対にマスクをしていない人は汚いと決めつける風潮が生まれている。マスクをただ調達できない人がいるだけなのに。

 

このように垢と浄を区別することによって、きれいなものを求めて汚いものを排除しようとするが、それが必ずしも正しくはない。きれいなものがなければ汚いものもなく、汚いものがなければきれいなものもない。きれいなものがなければ汚いものもない。

 

では、コロナウイルスを押さえながらかつ、一元論的に浄と垢を分別しないためにはどうしたらいいか?

「きれいなものがなければ汚いものもない」わけだから、「きれいなものをなくす」が答えである。

 

まず、きっと全ての人ができる公衆衛生は実施すべきだから、手洗い、ウガイの敢行は奨励すべきだ。マスクを増産し、だれもがマスクをできる状態にするのも大事だ。

 

まずいのは、汚いものは隔離するという考えである。ウイルスは見えないものであるから隔離は本当にできるのであろうか?

 

全てはウイルスが付いている汚いものと考えれば、隔離する必要はない。これが、「きれいなものをなくす」という意味である。その上で感染防止の対策をすれば、よいかなと思う。コロナウイルスは生まれてしまったものであり、それを消すことはできない。少なくとも長期的な視野で考えれば、コロナウイルスに出会うことは減らすことはできないと思う。それより、自身に抗体を作り、免疫によって体の内部に入れないようにすることが大事であり、ワクチン等はできてほとんどの人に抗体ができれば、コロナウイルスに関する垢即浄の考えはかなり薄れるだろう。

 

そうはいっても、今は重症感染者を治療するキャパシティを超えてしまうことが問題だから、ある程度の隔離や不要不朽のイベントの自粛、学校の休校や在宅勤務など必要かと思う。もちろんそれが無駄たとは思っていない。

 

一番気になるのは、今の対応ではコロナウイルスはなくならないという事実である。いつまで学校を休校にするのか?イベントを自粛するのか?経済の停滞を許容するのか?

 

私は、治療のキャパシティは整って重症患者の治療が可能であると判断をできたらすぐに、全てを普通に戻すべきだと思う。要は垢と浄を区別する限り、垢はなくならないし、むしろ増えてゆく可能性もあり、浄を求めて分別する活動はずっと継続しなかればならなくなる。イタチごっこである。垢が増えることを許容して、垢と浄を区別しなければ、別の対策が見えてくる。すなわちできるだけ垢(コロナウイルス)が身の回りにあっても、感染しないようにする対策である。ワクチンの開発も大きいし、感染しても重症かしないような体力、免疫力をつけることもそうかもしれない。

 

今国民全体が、どこにいれば安全か、安全なところがわからない状態で不安かもしれない。ただこの騒動が収束したとしても、それで全てが安全になったわけではなく、どこが安全かわからないことは、変わらないと思う。それでも生きていくためにはそこに身を閉じなければならないことを自覚すべきである。要は全ては汚い、すなわち全ては綺麗と思うことで、元の生活に戻れるはずである。

 

もし、100年前の日本でコロナウイルスがあったとすれば、コロナウイルスがあろうがなかろうがその存在に気づかず同じ生活をずっと続けていたに違いないということは、考えるべきである。知ると知らないはどちらが良いかわからないということである。ここでは知るということが分別や執着につながり、知らなけれな無分別ということになる。卒業式を普通に迎えられなかった学生たちを思えば、100年前の学生であれば普通に卒業式を迎えたわけで、知らない方がよいのではと思うのである。