垢で汚れているものとピカピカで綺麗なものを同じとすることである。
 
まず例として思い浮かぶのは、キャンプで土の上に物を置いたり作業することで汚れることを考える。
 
キャンプに馴染みのない人にとって、土で汚れることは、汚いと思うに違いない。自分は、土で汚れても全く汚いとは思わない。なぜなら土自身は自然な土壌で植物由来の汚いものはなにも入っていないからである。
だから私から見れば、土の付いたザックは、垢即浄と言える。
 
一方、駅の階段の手すりやドアノブは一見チリもなく泥もなくきれいに見える。でも、ウイルスがついているかわからない訳で、むしろ自然の土より、汚いかもしれない。だから、浄即垢と言える。
 
コロナウイルス対応で、屋内のカラオケボックスやライブハウス、スポーツジムなどが汚いとされている。一方自然のキャンプ場や公園はクラスター発生の場所とはされない。ここでは浄は自然物であり、垢は人工物である。現代人は、人工物に浄を求め、自然物は垢と考えがちである。でも、日常に人工物に取り囲まれて生活すると、自然の「浄」に癒され、気づくことがとても多い。キャンプは何が本当に綺麗でなにが汚いかを気づかせてくれる。土はアルコール消毒はできないが、そこにコロナウイルスはいない。
キャンプで穴を掘って天井のないトイレを作れば、文明社会にある屋根のある密閉されたトイレのように臭くないし、汚物を川に流すこともない。文明が、垢と浄を分けるため、トイレという閉ざされた空間に匂いを密閉させたためトイレは臭くなり換気が必要になった。トイレの中という限れれた空間でしか自分の便を見ないことになると、自分の便とは言え、自分とは異質の汚い「垢」であり、自分の小腸内で作ったものという認識はなくなるだろう。食べ物が「浄」とすれは「浄」と「垢」は連続的に繋がっている、すなわち浄即垢となることは、全く認識されていない。
 
もう一つ例を挙げるとすれば、飲料水についてである。発達途上国では、綺麗な飲料水を確保できないことが、乳幼児の死因の大きな要素になっている。であるから自然な水を浄化して水道水を作ることは重要である。一方先進国では、上水道に入っているカルキが汚いと、ミネラルウオーターを求める。後進国にとって、水道は垢即浄を実現する価値あるものであるが、先進国にとっては、綺麗に見えて実は臭い浄即垢の位置付けとなる。水道水をみれば、浄と垢はひとつであることがよく分かる。