旦椋神社 (城陽市観音堂)
(あさくらじんじゃ)


山城国久世郡
京都府城陽市観音堂甲畑1-12
(P無し、道路向かいに停め置きました)

■祭神
高倉宮以仁王(モチヒトオウ)


源平合戦の重要局面に於いて、鍵を握った以仁王を祀るという稀少な社。同名の旦椋神社(式内比定社)が宇治市にも鎮座し多分に混同されていますが、当社との関係はまったく無いようです。
◎以仁王は第77代後白河天皇の第三皇子(「平家物語」は出家した同母兄を除外し第二皇子とする)。源氏に平氏打倒を促したとされる「以仁王の令旨」が広く知られるところ。
◎治承三年(1179年)に平清盛が後白河法皇を幽閉しました。「保元・平治の乱」(1156年~1160年)に於いては後白河天皇の大きな信任を得て、最終的には勝利者となり武士として初めて太政大臣に上り詰めた清盛。発言権が増すとともに後白川天皇(後に上皇、法皇)と対立することになりました。そこで起こったのが後白河法皇の幽閉事件。以仁王も知行地を没収されています。
そこで出されたのが「以仁王の令旨」。全国の源氏に平氏追討のため挙兵を促しました。自身も挙兵を試みましたが事前に発覚。平氏の圧力により臣籍降下され源姓になり、土佐国への配流が決定。以仁王の館も襲撃されますが、その前に園城寺へ逃げていました。そして興福寺の協力を得ようと大和へ南下。その途中、南山城の「加幡河原」で追討軍に討たれました。
なおその「以仁王の令旨」により木曾義仲や源頼朝等が次々と蜂起、平氏を討滅させたことは広く知られるところ。
◎以仁王の御墓が木津川市山城町綺田神ノ木に築かれ、隣接して以仁王を祀る高倉神社(以仁王が生前は高倉宮とも称されていた)が鎮座しています(ともに未参拝)
その5kmほど北に当社が鎮座します。以仁王の遺骸を都に送る途中、冑が落ちたのを村人が密かにしまっておいたところ奇怪なことがしばしば起こるので、神に祀り神社を「冑神社」と称したと伝わっています。
◎南東1.5kmほどに鎮座する粟神社(現在記事改訂作業中、リンクには飛びません)の社記によると、第6代孝安天皇の御代に「平間山」麓の「百舌ヶ原」(詳細地不明)に少名彦名尊と高御産霊神が降臨し、乙足彦連という人物に「我を祀れ」と夢のお告げがあったので、探してみると椎の木の下に粟の穂が、榊の木の下には稲穂が生えていたので、そこに社殿を建てて祀ったとのこと。そして少彦名尊は粟神社に、高御産霊神は当社にて祀られたとも。これを史実とするなら、原始は高御産霊神を祀り、後に高倉宮以仁王が被さったと言えます。
◎明治になり「旦椋神社」と改称。「旦椋」とは穀物を収納する校倉の古語であるとのこと。当地区の産土神であり、豊かな社叢は府の文化財環境保全地区に指定されています。御本殿も同じく府の登録文化財に指定。


車はこのように停め置きました。社前道路はダンプの通行が多いため要配慮。


「義経伝記」で子供の頃より抱いた以仁王のイメージとは、大きく異なるものでしたが…。



拝殿

狛犬が見えます。



参道途中の境内社。




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