下森神社 (舞鶴市女布)


丹後国加佐郡
京都府舞鶴市女布
(詳細住所不明、「女布143-1」の「増田医科器械」さんの西隣、ただしここからはアクセスできない、アクセスは下部写真にて)
(P無し、近隣停め置き不可)

■祭神
天日別神


西舞鶴の南部郊外、「女布(にょう)」に鎮座する社。住宅等の開発が押し寄せる中、畑の中に忘れ去られたかの如く小さく佇んでいます。
◎「女布」は「千石山」(標高334m)を背後に東側に広がる地。麓の谷地から北東方向にかけて集落がみえます。谷地の奥底の山合に日原神社が鎮座、麓の平地部に当社が鎮座します。
◎「にょう」という地名は「にう(にふ)」からの転訛とみてよいかと思います。つまり「丹砂」(水銀)が採掘されたものと。当社より南東300mほどには、水銀採掘を行っていたのではないかと考えられる伊加里姫=井氷鹿(井光)を祀る伊加里姫神社が鎮座しています。
◎当社地周辺の畑から日原神社にかけての、微高地から平地部一帯は「女布遺跡」。弥生時代からの竪穴式住居等の遺構が発見されており、縄文時代の土器等も一部見付かっているようです。西舞鶴では唯一の縄文時代の遺物が出土(2023年3月現在)、今のところ西舞鶴ではもっとも早くから拓けた地とされます。
◎当社については日原神社と、舞鶴市「万願寺」に鎮座する九重神社が関わるようです。
「九重神社略記」という書によると、慶長十八年(1613年)に「笶原宮」(笶原神社のことか)の祝部 海部正之が「九会神」を「下森」に祀ったところ、流行していた疫病が収まったとあるようです。この「九会神」を「下森」に祀ったというのが九重神社
のことであるとしています。ところが九重神社が鎮座するのは「万願寺」。
◎この「九会神」について、日原神社において白鳳元年(670年頃か)に「九会神事」が起こり、翌年から九社の御輿を集めて渡御が行われていた、ところが慶長十六~十八年(1611~1613年)の三年間は「下森」を仮設祭場としていたとあるようです。つまり当社にて仮設として行われていたのが、慶長十九年以降は九重神社にて行われるようになったということかと思われます。そして当社は現在、日原神社の御旅所としてみなされているようです。

◎飛鳥時代に御輿があるなどとは思えず、少々難のある資料ながらも、概ねこれにより当社及び九重神社の創建がなされたかと思います。

◎ご祭神については九重神社が天日別神としていることから、当社も同じと思われます。
ただし天日別命は当地に縁も所縁も無し。祭神不詳、または「九会神」としておくべきでしょうか(→詳細は九重神社の記事にて)。「加佐郡誌」は九重神社について、「大己貴神外(他)九神」としていますが根拠は不明。「九会」とは一体何のことでしょうか。





参道は南南東から。他から当社には入ることはできません。

耕作者が作業中であるのを見付けたので恐る恐る進入。「参拝です」とお声がけすると、快く御了承下さいました。赤い逆三角が当社。

この畑は「女布遺跡」の真っ只中。開発されずにこのまま畑を続けて頂きたいものです。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。