◆ 土蜘蛛 二十四顧 (「肥前国風土記」~5)
和泉式部の出生地は肥前国「杵島郡」の福泉寺という仏教施設。
すぐに「塩田郷」の夫婦に引き取られ育てられたとのこと。幼少時から和歌の才能に優れ、京の都にまでその評判が届いた…と、佐賀県嬉野市塩田町の「和泉式部公園」の案内にあるようです。
Wikiには父が越前守 大江雅致の娘であると書かれており、兄弟に大江匡衡(赤染衛門の夫)がいます。
父が大江氏なら、そりゃもう都に筒抜けやわな~!
【丹後の原像 第78回】にて、和泉式部とともに、赤染衛門なども記しました。いろいろと繋がるものです。
今回はそんな和泉式部の出生地伝承のある、肥前国「杵嶋郡」にいた「土蜘蛛」です。
■ 杵嶋郡(きしまのこほり)
現在の佐賀県「杵島郡」や「武雄市」辺りとされています。上に掲げた地図の通り。
「杵島郡」は「有明海」の最も北に奥まったところの佐賀平野沿岸部。「武雄市」はわずかな盆地部を含めた山間地帯。佐賀平野はかつて「有明海」だったと思われます。
「吉野ヶ里遺跡」は南隣の「嬉野市」。
先ずは風土記に記される地名由来から。
━━昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡幸した時、この郡にある「磐田杵之村(いはたきのむら)」に御船を停泊された。その時、船の「牂戨(かし)」の穴から自然と冷水が湧いた。
また、別の話として、船が停泊したところが自然と島になった。それを見た天皇は郡臣らに、「この郡は牂戨島郡(かししまのこほり)と呼ぶべきだ」と言われた。それが今、「杵島郡」と謂うのは訛ったものである。郡の西には温泉が湧き出す。ところが岸壁が峻厳なため、人が近付くことはない━━
風土記等の地名由来譚は信憑性の高いものは少ないように思います。こちらも怪しい…。
停泊する船を繋ぎ留める「牂戨(かし)」の穴から…などと記されていますが。果たして「かししま」が「きしま」に転訛するのでしょうか。「かししま」→「かしま」→「きしま」と転訛したのでしょうか。
さて、いよいよ「土蜘蛛」が現れます。
━━「嬢子山(をみなやま)」、郡の東北にある。景行天皇が行幸した時、この山の山頂に「八十女(ヤソヲミナ)」という「土蜘蛛」がいた。「八十女」は天皇の命を拒み背いて降伏しなかった。そこで天皇は兵を遣わせ不意に襲い、これを滅ぼしたという。これにより「嬢子山」と呼ばれるようになった━━
「八十女」というのは、たくさんの女土蜘蛛のこと。女賊長に組織された女武装集団とも考えられますし、或いは巫女集団であるも必要に応じて外敵と戦ったのかもしれません。
「八十女」の討伐について、「遣兵掩滅」という記述がなされています。「掩」という字には「不意に襲う」という意味があり、「掩撃」「掩襲」といった熟語も。
このことから、武装していない巫女集団だったのではないかと。神託により景行天皇に服従するなと出たため、それに従っていたのではないかと…このような想像をします。
また「土蜘蛛」とされたのは、巫女集団を長とし、採鉄する男性労働者たちがいたからではないか…という想像をします。
「武雄温泉」でも知られ、鉱物が多く出土したとみてよかろうかと思います。情報量が少ないながらも、いろんな想像をしてみました。
「嬢子山」については、現在その名の山は存在しません。これについて「肥前国風土記」逸文なるものが現存し、異なる記述がなされています。
━━杵島郡。県の南二里に一弧の山有り。坤(南西)かたゆ艮(北東)を指して、三つの峰が連なっている。名付けて「杵島」という。峰の坤を「比古神」という。中を「比売神」という。艮は「御子神」という。別名を「軍神」いい動くと兵が興るのである━━
「嬢子山」には諸説あり、「鬼ノ花山」「両子山」「女山」など。三連を「鬼ノ花山・椛鳥山・杵島山」とするものもありますが、残念ながら連なっていません。
「鬼ノ花山」は「嬢子山」と称されることもあり、またサヌカイトが産出されるとも。山名の「鬼」も含め、こちらが妥当なのでしょうか。そうすると三連というのも現実味を帯びますが。
ちょうどいい具合の写真がWikiにあったので添付しておきます。
*画像はWikiより
今回はここまで。
細切れ的な記事になっていますが。
もう少し「肥前国風土記」が続きます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。