太田大明神 (奈良市芝辻町)


大和国添上郡
奈良市芝辻町
(「船橋通り商店街」沿いの「芝辻町11-6」の「鍋屋 喜八」さんの南隣)
(P無し)

■祭神
(不明)


「奈良回り八か村」の一つ、奈良市「芝辻町」に鎮座する社。また社前は「船橋通り商店街」に面しています。
◎「奈良町」は関ヶ原の戦い後、徳川家康が側近の大久保石見守長安を「奈良大官」に任命し、町域の画定がなされ、100町が直轄地として確定しました。これが慶長八年(1603年)頃のこと。そしてその総称が「奈良町」。
その後「奈良奉行」が幕府の直轄地として支配されました。やがて「奈良町」をとりまく幕府領の「杉ヶ町」などの「奈良回り八か村」が、こちらも「奈良奉行」の支配下であったため、広義での「奈良町」と考えられるようになったとされます。
◎「芝辻町」については、奈良市のサイト「歴史的風致形成建造物 指定台帳」の「中島家住宅」に以下のように記しています。
━━奈良町の北西部に位置する芝辻町は
中世奈良三市の北市の南にあって、芝辻町の名は当時、柴の市がたったことに由来すると言われている。奈良町周縁部にあって農家が分布していた場所であり、現在も通りには農家住宅や間口の広い町家がよく残っている━━
「中島家住宅」は東方100m足らずの地にあります。
◎「船橋通り商店街」については、「油阪町」「船橋町」「芝辻町」の三町に渡る南北400mほどの商店街。北端となる「佐保川」の先に、「幻の大仏鉄道」と呼ばれる「大仏駅」ができた明治末期に、往来する人が増えたようです。また大正に入ると「大阪電気鉄道」の「油阪駅」ができ、「船橋通り商店街」ができたようです(下部写真参照)。
◎当社に関する資料は見当たらず詳細は不明。「正一位」や狐の眷属から稲荷社であろうと思われます。農家住宅が五穀豊穣の祈りを捧げた社、或いは商店街の守護神として祀られた社なのでしょうか。北北東100m余りには北市戎神社が鎮座しています(後ほど記事UPします)。


「船橋通り商店街」に面する社前。現在は南方のみ賑わっています。







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