瓜破天神社
(うりわりてんじんじゃ)


河内国丹比郡
大阪市平野区瓜破5-4-19
(境内に駐車可)

■祭神
素戔嗚尊
菅原道眞
平惟盛


難読地名の一つ平野区「瓜破(うりわり)」に鎮座する社。大阪市東部の市街密集地の中に鎮まっています。
◎創建由緒については社頭案内に以下のように示されています。
━━瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録(元文元年、1736 記)によれば、孝徳天皇の大化年中(645~649)当地に居住された高僧、船氏道昭が、五月晦日三密の教法觀念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜り、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と稱したのが当社の起源であると記されている━━
◎これは「瓜破」の地名由来となるもの。なぜ供えたのが「西瓜(すいか)」であったのかは不明。
◎船氏は百済系渡来人、王辰爾(オウシンニ)を祖とする氏族。紀には欽明天皇十四年に「樟勾宮」へ行幸の際、蘇我稲目が勅を受けたため、王辰爾を遣わし船の賦(みつぎ)を数えさせました。この時王辰爾は船の司となり、「船史」姓を賜っています。これが船連の祖であると記されています(連姓を賜るのは天武十二年)。この他にもたびたび紀や続紀に登場し、重宝されていた様子が窺えます。
道昭は白雉四年(653年)に遣唐使として入唐。「船戸録」の記述はその前のことのようです。
◎当社の北部にかつて牛頭天王を祀る「北の宮」があったものの、慶長年間(1596~1614年)に「西の宮」(当社)に合祀。寛永年間(1624~1643年)には耕作の都合で集団移住し「西川村」を形成。そこに氏神として天満宮を創建。また北東部には小松大明神社(東の宮)があったとのこと。これらが明治にすべて当社に合祀。昭和にそれぞれ復社していると伝わります。
◎「西川村」ですが、丹南郡(丹比郡は平安後期に丹北郡と丹南郡に分割)に見えます。現在の羽曳野市「恵我之荘」が該当するのではないかと考えます。こちらには西川八幡神社が鎮座(未参拝)、「東除川」に架かる「西川橋」も。当地より南東2kmほど離れています。






不明の礎石らしきもの。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。