熊野神社・若宮神社 (福知山市大江町公庄)


丹後国加佐郡
京都府福知山市大江町公庄269
(P無し)

■延喜式神名帳
熊野神社の論社

■祭神
櫛御氣野命
伊邪奈岐命
伊邪奈美命


「由良川」中流域の北岸、福知山市大江町「公庄(ぐじょう)」に鎮座する社。地名説話等は後ほど。「由良川」沿いの国道175号線に面して一の鳥居、社殿は数十段の石段を登った先の丘陵上に設けられています。
◎当社は式内社 三宅神社の論社に挙げられています。他に論社として挙がるのは東舞鶴の北吸の三宅神社、東舞鶴北部郊外の河辺の八幡神社(未参拝)、西舞鶴の宮﨑神社
◎「丹後國式内神社考」という書に、「公庄村に熊野若宮社という古社があり、社伝に麻呂子親王の臣等が御造営した。その後今の地に遷座した」(大意)とあるようです。
元明帝(707~715年)の御代、勅を受けて麻呂子親王(=當麻皇子、=用命天皇第六皇子、=聖徳太子の異母弟)が「大江山」の鬼を討っています。
◎具体的な創建年代は不明。旧社地も伝わっていないようです。江戸時代には熊野若宮社と称されていたと伝わります。
◎「公庄」は「公荘」とも記され、地名由来は公卿の荘園があったからと言われています。これとは別に、麻呂子親王に仕えた四勇士の一人の公庄氏が、鬼賊征伐の帰途にこの地で脚気を患って、この地に留まったことに由来するとも。
ところが「丹哥府志」は「丹後旧記に云う」とし、━━元明天皇和銅六年(713年)、夏四月に丹波五郡を割いて丹後の国を置いた。始め郡を分かつ時先ず加佐郡河守(こうもり)庄より始めて、竹野郡網野庄に終わる。この両所に公庄村を置いた。思うに始終を示すなり。その終わる処に一社を建てた。まさしく帝を祀る社である。延喜式にいう生王部神社はこの社である。今は郡立大明神(未参拝)という。
思うに公庄という村の名はこの両所に限らず、他地域にもある。必ずしも郡を分ける場合に限らない。しかし神の名に郡立というのは少し珍らしく思われる。されども本当に元明帝を祭る社なのだろうか━━(大意)
◎京丹後市網野町にも「公庄」という地があります。ところがここを丹後国の「終わり」、つまり端とするにはかなり中途半端な地。さらに西側には丹後国熊野郡が存在します。また大江町「公庄」も丹後国の「始まり」とするには疑問符が付きます。他の意味があるように思うのですが。






大きい社殿が熊野神社でしょうか。彫刻が秀逸。

小さな社殿が若宮神社でしょうか。

宝暦九年(1759年)作と刻銘される狛犬。