◆ 「天神縁起絵」
~道明寺天満宮発行ガイドブックより~
(41~48面)




道明寺天満宮に伝わる扇面形式の「天神縁起絵」。前回の記事に引き続き41面からを(全60面)。

前回はクライマックス的な部分、雷を伴う大嵐は去ったようです。


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■過去の記事

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41.「文子託宣」
天慶五年(942年)、西京七条少女文子(アヤコ)に天神(道真)が託宣。右近の馬場(北野)に社を造り崇拝せよと。

42.「文子祠祀」
文子は身分の低いため憚り社を造ることができず、自宅に小祠を祀る。現在、下京区間ノ町通花屋町下ルに多治比文子ゆかりの文子天満宮が鎮座する(未参拝)。

43.「太郎丸託宣」
天慶九年(946年)、近江国比良宮の禰宜・神良種(ミワヨシタネ)の息子、太郎丸にも託宣があり、(山城国の)右近の馬場(北野)に松を植えて法華三昧堂を建立せよと告げる。現在、滋賀県志賀町北比良には太郎丸ゆかりの比良天満宮が鎮座する(未参拝)。

44.「造社相議」
良種は右近の馬場に赴き、僧侶らと造社を相議する。一夜のうちに松が生い茂り松林となったという。



台風一過というか…平穏な日々が戻ったようです。朱雀天皇の迅速な鎮魂により。そして物語は北野天満宮の創祀譚へと。

神社名がいくつか出てくるので、整理しておきます。
*比良宮 … 樹下神社
*文子の託宣 … 文子天満宮
*太郎丸の託宣、右近の馬場 … 北野天満宮(京都府)
*太郎丸が居た周辺 … 比良天満宮(樹下神社に隣接)


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45.「社殿造営」
天歴元年(947年)から天徳にいたる十四年の間に五度にわたり社殿造営。

46.「北野社参詣」
北野社(北野天満宮)が完成し、老若男女の崇敬を集めた。

47.「内裏焼亡」
天徳四年(960年)、ある僧が北野の上空に黒雲がおこり、右近の馬場より内裏へ落雷する夢を見る。その後実際に内裏が焼亡。天満天神(道真)の眷族の仕業であった。その時、内侍所の神鏡が桜木に飛び移ったという。

48.「虫喰和歌」
第64代円融天皇の御宇、貞元元年(976年)~天元五年(982年)、相次いで三度も内裏が焼亡。再興の時、南殿の屋根裏の板に虫喰いの跡があり歌になっていた。
━━作るともまたも焼けなむ
 すがわらや むねのいたまの
 あらむかぎりは━━
「棟に張った板の間」と、菅原(道真)の「胸の痛み」との掛詞で恨みを述べる。



北野天満宮も完成!
やれやれこれで道真の霊も安らかに…
…とはなりませんでした。

内裏が三度焼亡したようです。落雷とは記されていないので人為的なもの、ひょっとしたら放火なのかもしれません。
ちなみに「内裏」とは宮城の中の一部、天皇の私的な場所。この中にはこれまでたびたび登場している「清涼殿」も含まれます。「内裏が焼亡」というのは内裏のほとんどが焼けてしまったということかと思います。




今回は少々短めですが
大人の事情でここまで。

次回は49面から、最終回となります。