手力雄神社 (岐阜市蔵前)
(てぢからおじんじゃ)


美濃国厚見郡
岐阜市蔵前6-8-22
(境内に駐車スペース有り)

■延喜式神名帳
比奈守神社の論社

■旧社格
郷社

■祭神


「東山道」(後の「中山道」)沿い、岐阜市「蔵前」に鎮座する社。かつて当社境内に稲蔵があったのでしょうか。かつての「長森庄蔵前村」。
◎社前を「長良川」支流の「境川」が流れています。天正十四年(1586年)に起こった大洪水の前は、ここに「木曽川」が流れていました。現在は南方3kmほどを流れています。
当地は「東海道」から「東山道」へ移る際の、「木曽川」の渡河点であったとのこと。徒歩にて渡ることができるのはここだけであったと。京の都へ軍勢が上がる時は必ず通過したようです。近くには土岐氏の長森城跡も。またこれに最初に気付いたのは坂上田村麻呂であるとも。
◎当社は式内社 比奈守神社(鄙守神社)の論社に挙げられています。他に上がるのは岐阜市茜部本郷の比奈守神社(未参拝)。
当社を比定しているのは「新撰美濃誌」(明治三十三年)、それを受けての「美濃雑事記」(昭和七年)。ともに「ひなもり神社 いま手力雄神社という」とあるようです。
◎「比奈(鄙)」は「飛騨(夷)」の転訛とされます。そしてヤマト王権の「夷」からの防衛拠点であったと考えられています。
◎「夷」から関連付けられるのは下照姫が読んだ「夷振(ひなぶり)」の歌。
━━天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神とうたひき 此の歌は夷振なり━━
(大意/天上の機織姫が首にかけている玉のように美しい阿遅志貴高日子根神は二谷を渡って行った)
これは記の阿遅志貴高日子根神が天若日子神(天稚彦神)の喪屋を破壊し、飛び去る時のもの。葦原の国平定を任じられた天若日子神が、下照姫と結ばれ任務を怠り、高天原から放たれた返し矢に当たり失命。「喪山」で殯を行っていたところ、下照姫の兄(阿遅志貴高日子根神)が訪れたが天若日子神にそっくりだったため生き返ったとされます。それに怒った兄は「喪山」を破壊し飛び去ったというもの。
◎「喪山」は北東10kmほどの辺り。「二谷」はどこかは不明。もう一社の比奈守神社のご祭神は下照姫とする説も。また近世までは「飛騨守神社」と称されていたようです。
◎当社創建は貞観二年(860年)と社伝にあるとのこと。根拠は不明。「美濃国神名記」(平安後期編)には「従五位下手力雄明神」と記載があり、それ以前の創建であることは確実。宮中の天手力雄命を勧請したとされ、元々は伊勢神宮の天手力雄命であるとのこと。


南面する鳥居と社殿。駐車場へはこのすぐ向かって右(東)より進入。