大神神社 (大垣市上石津町)


美濃国多芸藝郡
岐阜県大垣市上石津町宮字街道194-1
(境内南側にP有)

■延喜式神名帳
大神神社の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
大物主櫛甕玉命
[配祀] 神倭磐余彦天皇 比賣多多良五十鈴姫命


「揖斐川」支流の「牧田川」上流沿いに鎮座する社。幹周り5m超の杉の古木が何本も立ち並ぶ荘厳な神域。社叢は岐阜県天然記念物指定。
◎創祀は持統天皇 朱鳥六年(692年)と伝わっています。岐阜県神社庁によると、持統天皇が伊勢国へ行幸の際、右大臣三輪朝臣高市麿が伊勢国三重郡に至った時、大物主神から託宣があり、右大臣は当地を選定し創建したとのこと。創建当時は「大神神社」と称されていたようです。
◎伊勢国からは遠く離れた当地が、なぜ選定されたのかについては触れられておらず不明。美濃国は壬申の乱の際に天武天皇の拠点となった地。当地も何らかの所縁があり、右大臣はそれを踏まえて選定したのではないかと想像する次第。ただし持統天皇は疲労のため同伴できたのは伊勢国の桑名まで。
◎原初の鎮座地は「多藝山」であるとのこと。これは「養老の滝」で名高い「養老山」の旧名。山頂は当地より東方5kmほど。詳細地は不明。
現社地に遷座されたのは永和元年(1375年)のこと。これとは別に応安年間(1368~1375年)に、天武天皇の社が鎮座していた当地に遷座されたという所伝も。
◎永久元年(1113年)には、「郁季山宮ヶ平」に鎮座していたという神倭磐余彦天皇と皇后の比賣多多良五十鈴姫命を祀る社殿が、暴風にて破壊、当社の「御手洗川」に流れ着いたのを拾い上げ当社に合祀したとのこと。そして「流彦大明神」として奉祀されていたものの、当社が「流彦大明神」と称されるようになったと。
◎その当時より神仏習合の禍害に遭い、神域には仏教施設が多く建てられ席巻されていたもよう。明治四年に至り現社名に復古され、仏教施設は排除されたようです。



鳥居前に数本の巨樹があり、潜る前から圧倒されます。境内にも多くあります。




ご本殿はあるようです。背後にも巨樹が立ち並びます。

境内社群

社前の巨樹。

こちらも社前。

境内の夫婦杉。ハート型の注連縄は意識したものか。