中臣神社 (南淵請安の墓)


大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村稲渕
(アクセスは下部写真参照)
(P無し、近隣停め置き不可、「男綱」のあるところに停めて15分程度歩きました)

■祭神
(南淵請安か)


「奥飛鳥」とも称される「飛鳥川」上流沿いの小さな集落、「稲渕」の小高い丘上に鎮座する社。
◎地元古老は当社を「中臣神社」と称しているという情報を得ました。これは帝塚山大学考古学研究所の市民大学講座で、特別研究員の甲斐弓子氏が語っていたもの。
◎南淵請安の墓の上に小さな祠が設置。鳥居や小さな狛犬もあり、神社としての体裁が整えられています。祠の背後には欅(ケヤキ)
欅(=槻)は古代より神の樹として崇められました。神の依り代であり、穢の祓えでもあり、占いとして使われたことも。神を崇める際に使用されるものの多くに、全体的に或いは部分的に欅が用いられました。
◎南淵請安は渡来系氏族、東漢氏(ヤマトノアヤウジ)一族の一人。推古天皇十六年(608年)に小野妹子・高向玄理(タカムコノクロマロ)・僧旻(ミン)らとともに遣隋使として派遣されます。
そして舒明天皇十二年(640年)に帰国。実に33年にも及ぶ滞在、この間に隋から唐へと政権交代があり、直接見聞することとなりました。
◎この見聞が後の「乙巳の変(大化の改新)」に結び付いたと言われます。中大兄皇子と中臣鎌足は請安から「周孔の教」(儒教)を学んだといい、請安の元へ向かう途次に蝦夷・入鹿殺害計画を思い付いたと紀に記されます。
◎ところが請安が「乙巳の変(大化の改新)」に加担した形跡は無く、変後の新政権で役職を拝受した形跡も見られません。既に亡くなっていたと推定されています。
◎東漢氏は蘇我氏に仕えていた氏族。蘇我氏の門衙や宮廷警固などを行っています。請安が蘇我氏に対して反旗を翻すようなこと(乙巳の変)が、果たしてできるのか甚だ疑問。
中大兄皇子と中臣鎌足に「周孔の教」(儒教)を教えたというのは、記紀編纂時に歴史を改竄し、新政権側の人物として描いたという可能性もあるとみています。一般には蘇我氏と袂を分かったとされていますが。また本宗家は崇峻天皇暗殺と妃との密通事件で没落しており、分家出身の請安には蘇我氏との結び付きが弱かったともされていますが。


「飛鳥川」沿いの「稲渕」集落を歩くと、この石碑が現れます。左(東)へ折れます。

すぐに分岐、案内板はありません。右折(南折れ)して坂道を登ります。

民家を過ぎると鳥居が見えてきます。




地元では南淵先生と慕われています。「稲渕」集落は末裔たちが住んでいるものと思います。

金毘羅権現


丘の麓の仏教施設前にある案内板。請安の住居跡であったとか。