機物神社
(はたものじんじゃ)


河内国交野郡
大阪府交野市倉治1-1-7
(P有るものの分かりづらい、境内東側より進入「倉治こども園」を目印にアクセスして後は案内に従う)

■旧社格
村社

■祭神
天棚機比売大神
地代主大神
八重事代主大神


霊峰「交野山(こうのさん)」の北西麓、交野市(かたのし)「倉治(くらじ)」の平坦地に鎮座する社。
◎当社が社名、祭神名から機織りに関する神社であろうことは明白。また棚機(七夕)伝説も。当社起源から棚機伝説と関わるまでの経緯を、当社は以下のように記しています。
━━古代、枚方市「津田」を「秦田(はただ)」、交野市の「寺」を「秦山(はたやま)」、「倉治(くらじ)」を「秦者(はたもの)」といっていた時代がありました。神社の名称はこの「秦者」の人たちが祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われますが、後に七夕伝説と結び付けられて、「秦」の機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。起源は古く四~五世紀にあるとも考えられますが、五~六世紀の頃に秦氏に代表される交易商人によって組織された養蚕布織の技術を持った民が大陸から渡来して、一部の集団が東部産地の麓に定住した時といわれています━━
◎当社が「起源」という四~五世紀には、「漢人庄員(かんじんしょういん)」が一族を率いて渡来し当地を開拓、そして帰化したとされています。そこに五~六世紀頃に養蚕布織の技術を持った民が大陸から渡来してきたと。
◎当時の祭祀の様子を、当社は以下のように表現しています。
━━当時、交野山と太陽の位置関係で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸から呪詛祭祀の習慣を持ち込んで、祭祀の場を「堂(くつ)」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られることです。このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち、白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。祀(*「祠」の誤植か)ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました━━
◎「交野山」山頂には「観音岩」と称される巨大磐座が座しています(記事未作成)。当社が「岩屋」と称しているものかと思います。「観音岩」という名称は、後の時代に修験者たちによって霊峰が冒され変えられたのではないかと。
◎七世紀の白鳳元年(672年)の壬申の乱において一族は、大海人皇子軍に従軍。天武天皇に即位後、恩賞として「交野忌寸(かたのいみき)」姓を賜っています。「新撰姓氏録」の「河内国 諸藩 漢 交野忌寸 出自漢人庄員也」がこれのこと。
◎八世紀に入り、桓武天皇は頻繁に当地へ行幸しています。長岡京が「交野山」の真北に造られたように、道教的世界観に重きを置いた桓武天皇がこの山を特別視していたようです。これには秦氏の関わりが大いに考えられますが。
◎以降、平安貴族たちは遊猟を行ったりや詩歌を詠んだりする地となりました。その貴族たちが好んだ「七夕伝説」と結び付き、機織神と祭神が変わったようです。交野郡(現在の交野市や枚方市など)を南北に流れる「甘野川」が、この時に「天野川」と転じました。
◎時代は下り、室町時代の文明八年(1476年)には後土御門天皇の勅により、神祇管領の卜部兼倶(ウラベカネトモ、吉田神道の事実上の創始者)が奉幣を行っています。
◎当社の参道は東西南からの三方向からという稀有なもの。理由は不明であるものの、一族の拠点の中心に社を構えたからとも。東側の参道は「交野山」からのものと思われます。
◎当社を有名にしているのは「七夕祭り」。上述の如く「七夕伝説」発祥地とも謳われています(近年はコロナ禍で開催されていません)


東側鳥居近くから進入すると、境内南側に着きます。

境内南側。

境内西側の鳥居と社号標。




境内社