☆ 大塚山古墳 (川合大塚山古墳)
大和国廣瀬郡
奈良県北葛城郡河合町川合
(P無し、案内板は「香の川製麺 法隆寺店P内に有り」)
■形状
前方後円墳
■全長
215m
■築造時期
5世紀後半
■埋葬施設
(未調査、不明)
■出土品
円筒埴輪・朝顔型埴輪・盾型埴輪・蓋型埴輪
土師器(須恵質土器を含む)
■周辺の状況
大和盆地内の主要河川が一気に「大和川」に合流する地
馬見古墳群のうちの北部、「大塚山古墳群」の中心となる一基
■被葬者
(不明)
全国第27位の規模を誇る巨大前方後円墳。
5世紀後半という時期では県内最大規模。
これほどの規模でありながら、一般的な知名度はいま一つ。天皇陵ではなく、また国史となり未調査であるがゆえでしょうか。
古墳に対して、おおよそ古代史を紐解く上の一資料くらいにしか意識していない「古墳素人」にとっては、
知りたいことは唯一点、
「被葬者は誰だ?」。
ところが被葬者像にアプローチした資料に乏しく、まったく探し出せていないのが現状。
「大和川の水利を握っていた人物」
「葛城氏か?」
この程度くらいしか情報は無し。
この時代は天皇陵だと300m級のものが築かれるほどの古墳時代全盛期ですが、これほどの規模だと限られているのでは?
なぜ特定できないのか?
「古墳素人」の率直な疑問です。
そこで葛城氏の古墳であると仮定し、勝手に推理をしてみようかと。そもそも6世紀後半で葛城氏となれば限られます。
葛城襲津彦の子は
「玉田宿禰・磐之媛(仁徳天皇皇后)・葦田宿禰・腰裾宿禰・戸田宿禰・熊道足禰」
このうち玉田宿禰・磐之媛・葦田宿禰は推定墓があるため、残りの腰裾宿禰・戸田宿禰・熊道足禰が該当。これら3人の推定墓があるのかどうか不明。
玉田宿禰の子は「円大臣・毛媛」
このうち円大臣の推定墓はあるので毛媛が該当。
葦田宿禰の子は「蟻臣・黒媛(履中天皇妃)」
ともに推定墓はなくともに該当。
腰裾宿禰の子は資料がなく不明。
戸田宿禰の子は「的戸田宿禰」
こちらは該当します。
熊道足禰の子は不明、後裔は忍海原氏(後に朝野氏に)ですが。
以上から腰裾宿禰・戸田宿禰・熊道足禰・毛媛・蟻臣・黒媛・的戸田宿禰のいずれかのものではないかと。
いずれも事績資料に乏しく考古学的アプローチでは結論は出せないのでしょうが。
また実在、非実在を言い始めるとキリがなく、葛城襲津彦そのものが実は三代の人物を一代にまとめたなどという説まであります。
不勉強ながらこの説は一理あると考えており、「襲津彦」の「襲」は、「世襲」の「襲」ではないかと。「津」は助詞「の」、「彦」は男性に付ける美称。つまりは「世襲の男性」となり、有り得ると考えています。
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