☆ 寺口忍海古墳群
(てらぐちおしみこふんぐん)



大和国忍海郡
奈良県葛城市寺口1563
(「葛城山麓公園」内、大型駐車場有り)



「大和葛城山」の北西麓の丘陵上に、推定200基という夥しい数の群集墳が築かれています。

またほとんど境目無く、「笛吹古墳群」と「山口千塚古墳群」がともに推定80基ずつ築かれています。いずれも忍海郡内。

そのすべてとまでは言わないものの、大方が渡来人の古墳かと思われます。

紀の神功皇后五年の条に、葛城襲津彦が新羅から捕虜を連れ帰ったとあり、これが桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人らの始祖であると。

*「桑原」 … 御所市朝町・池之原
*「佐糜」 … 御所市東佐味(ひがしさび)・西佐味
*「高宮」 … 御所市森脇付近、または西佐味付近
*「忍海」 … 忍海郡(おしみのこほり)


これは新羅の王(こきし)からの人質としていた微叱許智伐旱(ミシコツホツカン)を返して欲しいと皇后に三人の朝貢があり、皇后は承諾。

葛城襲津彦を副えて、三人の使者と人質の微叱許智伐旱を乗せた船は鉏海の水門に到着。

ここで微叱許智伐旱は仮病を使い、藁人形を寝床に身代わりに、三人の使者が予め用意していた船で逃走します。

襲津彦は使者の三人を焼き殺した上、新羅に向かい「蹈鞴津(たたらのつ)」に到着。「草羅城」を攻め落とし捕虜を連れ帰ったというもの。

少々余談ですが「蹈鞴津」から、鍛冶製鉄に関わる人々を捕虜として連れ帰ったのではないかと…。四邑ともに鍛冶製鉄と関わりが考えられます。


現地は公園や墓地の案内はあっても古墳の案内等は一切無し。
4基ほど確認はできましたが、他は盛り上がりがあるような無いような…たぶん怪しいものほぼすべてが古墳なのかと思います。

調査はあまりなされていないようです。
築造時期は5世紀後半~7世紀初め頃まで。副葬品に鍛冶の道具を持つものがあるようです。

一基だけ石室が剥き出しになったものがあるので、写真を掲載しておきます。


南北が逆さまなのでとても見づらいですが…。以下の写真は右側のベージュ色に塗られた「墓地」の付近のもの。

コブのように盛り上がっているのが古墳。





おそらくは茂みの中にも相当数あるのだろうと思います。



「大和葛城山」は左手、「岩橋山」は右手に。いずれもこの写真には写っておらず、ちょうどその間くらい。