大和国宇陀郡
奈良県宇陀郡曽爾村長野
(遥拝できる「屏風岩公苑」P有り、春と秋のみ有料500円)



屏風を衝き立てたように垂直に屹立する柱状節理の露出岩盤。
幅はおよそ2km、高さは200mほどという途方もない壮大さ。標高は940m。

◎隣の御杖村の「兜岳」「鎧岳」とセットでみる必要があるのではないかと考えています。いずれも太古からの信仰対象であったのだろうと。神が宿る山と考えずにはいられないかと。

そちらの両山も同様に、柱状節理の巨大な露出岩盤。どちらも美麗な三角錐のいわゆる「神奈備山型」。一方「屏風岩」は横長の長方形といってもいいくらいの山容。

そちらの「兜岳」「鎧岳」を御神体としていると思われるのが門僕神社。当社についてもかつてどこかに遥拝するような祭祀場があったのかもしれません。

◎記紀に見える「素珥山・蘇邇山(そにやま)」が、「屏風岩」のことであろうと思われます。

これは記の記述(紀では仁徳天皇四十年の条)、
「天皇は弟の速總別王(ハヤブサワケノミコ)の仲立ちで、異母妹の女鳥王(メドリノヒメミコ)を妃にしようとしました。
ところが女鳥王は大后(石之日賣)を畏れ、速總別王と密婚。女鳥王が夫の速總別王に『雲雀は天を翔るもの。同様に速總(隼、=ハヤブサ)は鷦鷯(さざき=ミソサザイ=仁徳天皇)を殺してしまいなさい(天下を取りなさい)』と歌うのを天皇は聞いてしまい、怒って二人の討伐隊を差し向けます。
二人は駆け落ち倉椅山(くらはしやま)の険しい山を越えますが、宇陀の蘇邇(そに)で追い付かれ殺されました』

大后(石之日賣=磐之姫)は強烈な嫉妬深さで有名。だからといって密婚するとは…。

速總別王は紀では隼別皇子。
女鳥王は紀では雌鳥皇女。

記では蘇邇(おそらく「屏風岩」)で殺されたと記されます。
紀においても概ね同様の記述。ところが駆け落ちは伊勢神宮へ向かって(当時まだ創建されていないと思われる)。菟田(宇陀)から「素珥山(そにやま)」を越えるも、伊勢の「蔣代野(コモシロノノ)」で殺されたと。そして屍を「廬杵河(いおきかわ)」の畔に埋めたと記されています。

つまり墓は…
記 → 「屏風岩」の近く
紀 → 伊勢の「蔣代野」近くの「廬杵河」

「屏風岩公苑」を少し下ったところに若宮神社(隼別皇子を祀る)が鎮座(後ほど記事UPします)。
またこの地こそ隼別皇子が眠るであろうと考え、奈良市の有志の方が平成二年に創建したという隼別神社が鎮座します(こちらも後ほど記事UPします)。


「兜岳」「鎧岳」については門僕神社の記事にて。


公園は美しく整備されています。

万葉歌碑かと思われますが、判読できず。

写真があまりに稚拙で、この岩盤のド迫力が伝わらないのがとても残念です。

目前にすると、神が宿る岩であると古代人が考えたであろうことは想像に固くありません。





公園内には岩が散在していますが、これが原初からその場所にあったものか、また信仰の対象であったものかは分かりません。

南側麓を。