石作神社・玉作神社


近江国伊香郡
滋賀県長浜市木之本町千田193
(P無し、近隣停め置き不可)

■延喜式神名帳
[石作神社] 石作神社の比定社
[玉作神社] 玉作神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
[石作神社] 天火明命
[玉作神社] 玉祖命


湖東を縦断する大動脈である国道8号線に面して鎮座する社。
◎当社は石作神社と玉作神社の2社が合わさった社。石作連、玉作連という技術集団がこの地に住み、それぞれの祖神を祀っていたようです。元々玉作神社が鎮座していた地に、文明三年(1471年)に兵火で焼失した石作神社を後に合祀したもの。
◎石作連は「新撰姓氏録」に、「左京 神別 天孫 石作連 火明命六世孫建真利根命之後也」とあり、「奉為皇后日葉酢媛命 作石棺献之 仍賜姓石作大連公也」と注記(「摂津国 神別」にも同じ記述あり)。日葉酢媛陵の石棺を作り石作大連姓を賜ったとあり、石棺などの製作に従事していたことが窺えます。
当地は石作郷と称され、旧社地は南南西200m余りの集落外れだったとされます。田の中に現在は石碑が建てられているようですが、石作連の首長墓という説も(現地未確認)。
◎玉作連は「新撰姓氏録」に、「右京 神別 天神 忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也」とあり、注記に「天津彦火瓊瓊杵命 降幸於葦原中国時 与五氏神部 培従皇孫降来 是時造作玉璧以為神幣 故号玉祖連亦号玉作連」と。
つまり高魂命(タカミムスビ神)の孫神である天明玉命(アメノアカルタマノミコト)を祖とし、天孫降臨時に随伴した五部神(五伴緒)の一であり、神事用の玉璧を造作したことから玉作連と名付けられたと。勾玉や管玉などの祭祀用具の製作を行い、忌部氏の伴造(とものみやつこ)であることでも知られます。また三種神器の「ハ尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の製作にも携わった氏族。
当地より南500m辺りに、古墳時代の最古の玉作工房跡が発見されているようです。
◎両氏族とも大変重要な職務に従事し、かつ高度な技術を有していたと思われます。この両氏族が隣同士であったこと、また何の因果か現在は合祀され並び祀られていることに関心を抱きます。
◎境内には磐座と思しき磐が据えられ、「玉姫物語」を刻んだ石碑が横に建てられています。
「むかし、千田は、石作りの庄と呼ばれていました。この里に、そうざえもんという人が住んでおりました。そうざえもんさんには、名を玉姫という、それは美しい娘さんがありました。そして、このことを、どこから伝え聞いたのか、伊吹の山に住む伊吹の三郎という男が、この娘をひと目みたいと里へやってきました。伊吹の三郎は、大変な怪力をもった大男でした。その上、里をあらしまわり、人々からは、大層恐れられておりました。三郎は、草屋根の下で、無心に玉を磨いている玉姫の姿にひと目ぼれしてしまいました。そして早速『娘をわしにくれ。』と、そうざえもんさんに頼みました。そうざえもんさんは『嫁にはやれぬ。』と恐る恐る、でも、きっぱりとことわりました。怒った三郎は伊吹の山の岩石を石作りの庄めがけて投げつけました。投げつけた石は、その里の岩田という田に落ちました。今もその石が、千田のお宮さんにまつられており、伊吹の三郎の手の跡が残っているのが見られるということです」と。







こちらが伊吹の三郎が投げつけたという岩石。表面は凸凹しており手の跡というのは不明。