八幡神社 (薬園八幡神社 旧社地 御旅所)


大和国添下郡
奈良県大和郡山市魚町30
(P無し、近隣に停め置きスペース無し、アクセスは下部写真参照)

■祭神
八幡大神


薬園八幡神社の旧社地であり、現在は御旅所である社。「郡山城」の城下町はここから始まったという、大変由緒のある地。
◎豊臣秀吉の弟、秀長が城主として君臨した「郡山城」。その城下町は城主小田切春次の時代より形成され始め、筒井順慶の時代に調えられ始め、秀長の時代に完成、最盛期を迎えたといわれます。小田切春次の時代は16世紀中頃、室町末期頃のこと。
◎当社はこれより遥か先に鎮座。薬園八幡神社は、東大寺大仏鋳造の守護神として宇佐八幡宮(記事未作成)より勧請された八幡大神を、さらに分祀勧請したもの。
当社創建は749年とされています。大仏造立開始は745年で、完成は752年のこと。
◎八幡大神は平城京の南の「梨原宮」に一旦鎮まります。この「梨原宮」の正確な位置は不明。その宮で仏教の儀式を済ませた後に、東大寺の手向山八幡宮(記事未作成)に遷されています。八幡大神は「梨原宮」で分霊され、「魚塩町」に遷されました。
その旧社地が当社。現在は小祠と境内社である稲荷社の小祠の二棟が鎮座しています。
◎社名は「梨原宮」にて「薬園」と命名して祀っていたことに由来するとされています。
大宝令(701年)に定められた「典薬寮」がこの辺りにあったとされます。「典薬寮」というのは、宮廷官人への医療や医療従事者養成、薬園等の管理(Wikiより)などを行った機関。この「薬園」が当社創建に関わると思われます。
社伝においては平安時代に「薬園庄」の鎮守として始まったとしており、創建はこの時のようです。「梨原宮」からの分霊当時は社殿など無く、創祀されたのが奈良時代かと。
◎小田切春次が城主の時代には隣の「塩町」とともに「魚塩町」と言われ、「塩の庄(茶園場)」と称されていたようです。この「魚塩町」の「薬園庄」を中心とした町並みができたのが、城下町の黎明期。「魚」と「塩」の市が開かれていたと伝わりますけど
筒井順慶の時代にはすぐ南側に、東西の大通り「京街道(鎌倉街道)」を設け、城下町の中枢はこちらに移っています。
◎材木町(当時は「矢田口町」)に遷されたのは享保年間(1716~1736年)のことと伝わっています。


アクセスは南側から。「藺町通り」の火の見櫓がある一つ北の辻を東へ。30mほど進んだところがこちら(東から西方面を撮影)。駐車場を入って行きます。
駐車場の奥はこのようになっており、民家の中へ入って行きます。

すぐにこのように二棟の小祠が並んだ境内が見えます。手前はかつての仏教施設跡のようです。


右殿(向かって左殿)が当社。左殿(向かって右殿)は境内社の稲荷社。


真ん中やや右の「魚町」とあるところの、ちょうど「町」の文字辺りのところから北上します。