郡山八幡神社


大和国添下郡
奈良県大和郡山市柳4丁目25
(P無し、近隣コインP等利用)

■旧社格
郷社

■祭神
品蛇別命
比売命
大帯日姫命


豊臣秀吉の弟、秀長が城主として君臨した「郡山城」。そのかつての城下町内、「柳町大門」のすぐ側に鎮座する社。社前は南北に「柳町商店街」としての通りがありますが、これはかつて堺や高野街道に繋がる交通の要衝。農民だった者が次々と商人となり、町衆で大いに賑わった地のようです。
◎創建由緒については、「聖武天皇の勅命により、東大寺大仏の鋳造が完成した天平勝宝元年(749年)に、東大寺大仏の守護神として宇佐八幡神社を勧請されることとなった。『続日本紀』同年十二月十八日に、宇佐八幡宮を平群郡に迎え、二十七日に京に入り、京南の梨原宮に新殿を造って神宮としたとある。京入りの前日、和州薬師寺門前の休ヶ丘で一泊された」と(当社公式HPより)。
さらに続けて「時の豪族中尾氏は勧請し、柳八幡大菩薩と尊崇し小高き丘の上、天高くそびえ立つ老木の松の根元に斎祀申し上げ、この地を柳と命名した」と。
◎現在の「郡山城址」から北西に「柳町」という地名が残ります。原初の鎮座地はこちら。地侍の館が多くあったと伝わります(最下部の写真参照)。「続日本紀」の言う「平群郡に迎え…」というところからの勧請となるのでしょうか。
同時期に薬園八幡神社(本日夜に記事改定予定)も勧請されています。そちらは「梨原宮」から勧請されたとしているため、当社は一日先に勧請されたということになるようです。
◎秀長により城下町が形成される中で、一旦は「綿町」に遷座されます(最下部の写真参照)。現社地に再遷座されたのは、文禄二年(1593年)頃と伝わります。「郡山城」鎮護する守護神として、歴代城主の厚い崇敬があったようです。
◎近年当社は「グラブ神社」とも称しているとのこと。これは奈良県がグラブの生産が日本一であるということからのようです。ところが実際に生産しているのは、大和郡山市からかけ離れた磯城郡三宅町で、日本の名だたる選手のグラブが作られています。熱心な野球指導者の方による崇敬があるのでしょうか。


手前の通りが「柳町商店街」。車で境内に入られなくもないですが、車のお祓い以外は遠慮すべきかと思います。


目立つところにグラブが奉納されています。





創建時は左上の隅の金魚が一匹描かれている池の辺り。一旦遷座された「綿町」は中央やや右上の「現在地」表記のあるすぐ下。現社地は最下部やや左、当社名が表示されています。