八幡神社 (新宮市相賀)


紀伊国牟婁郡
和歌山県新宮市相賀186
(P無し、アクセスや駐車は下部写真参照)

■旧社格
村社

■祭神
誉田別天皇


新宮市街から車でわずか10分ほど、「熊野川」から直線で500mほど西へ、屹立する巨大な柱状節理の下に祠を設けた社。社前を「高田川」が流れ、奥地は「桑ノ木の滝」があります。いかにも熊野らしいといった趣。
◎創建に関しては社伝によると、藤原鎌足後胤の信州上田の領主 信濃守藤原光共の長子 上田太郎という者が「王子(今の「裏の平」)」に居住、その際に和田・高目・田中の三氏も当地に居住、四氏申し合わせで「字番峪」へ勧請してきたとされています。
「裏の平」についても「字番峪」についても詳細場所は不明。時代は人皇第40代とされているので、これは天武天皇のこと(在位673~686年)。当地遷座は天明八年(1788年)のこととされています。
◎ところが遷座のわずか60年前に編纂された「紀伊国続風土記」には当社の記録が無いようです。かつて「相賀村」は「熊野川」対岸の「浅里村」の枝郷とされていたらしく、その「浅里村」に鎮座する八幡宮(現在の浅里神社、未参拝)が氏神だったと考えられています。
◎以上から導かれる個人的な思量は3点。一つ目は「続風土記」に「小堂一宇」との記述があり、これが仏教施設のものではなく、当社のことだったのではないかと。これは和歌山県神社庁が指摘しているもの。そういった仏教施設が現存していないことからも十分にあり得るかと思います。
二つ目は「分祀または勧請」を「遷座」と間違えて記述したのではないかと。これはもちろん「浅里村」の八幡宮(浅里神社)からのもの。
三つ目は屹立する巨大柱状節理そのものを御神体としてそのまま信仰していた、つまり社殿等が存在せず「続風土記」編纂時には神社として認識されていなかったかと。そして60年後に「浅里村」から分祀勧請してきたのではないかと。
いずれも想像の域を出ないものですが。
◎現在の祠は近年再興されたもの。2011年の台風で崩壊したことによるもののようです。かなり小さいものとなったようで、岩盤を信仰していた古代の様に近付いたとのこと。
◎当地名「相賀(おうが)」については、川辺に桑の木が多く、古は大木があり「大桑」と呼んでいたが、「あふか」と訛り、終には「相賀」となったと「続風土記」は古老談を載せています。


駐車場は無く無人の施設だったのでここに停め置きましたが、あまり良くないかもしれません。

「桑ノ木の滝」の案内通りに向かえばその途中にあります。

橋を渡る前から含めて5分程度歩けば当社へ。

川辺を歩きます。かつてこの道は「三輪崎」へ向かう街道であったとか。




高さは15mほどに見受けられます。ただし上部は不明瞭なため、さらに大きいのかもしれません。

目視できる最上部までを撮りました。

途中にあった岩影。祭祀が行われていた可能性を窺わせます。

上の写真を反対側から。