■表記
紀では豊城入彦命
記では豊木入日子命


■概要
◎崇神天皇皇子。活目入彦五十狭茅尊(イクメイリヒコヒサチノミコト、=大足彦尊、後の垂仁天皇)とともに皇太子の候補に上がるも、東国平定を任され皇位は継承されなかった皇子。
これは崇神天皇三十年のこと、天皇は豊城入彦命と大足彦尊に詔し「汝等、欲しい物を言いなさい」と。これに対し豊城入彦命は「弓矢が欲しい」と、大足彦尊は「皇位が欲しい」と答えています。そして豊城入彦命は東国平定へ、大足彦尊は垂仁天皇に即位しました。
これは当時の末子相続制によるもので、異母兄である豊城入彦命が相続権の無い祭祀を引き継いだものと考えます。
◎命は東国にて祀られている事例が多くあります。実際には大和国にいながら祭祀を行い、大和朝廷が東国進出を行っていく過程で、皇祖神等の神威を仰ぐための祭祀を続けていたのではないかと考えています。そして紀の編纂者たちは末子相続制であったことを知っていて無視したのか、或いは知らずなかったのか、編纂作業を進めたものと思います。
結局のところ東国平定を成したのは後裔であり、命が多く祀られ、また命の墳墓伝承などがあるのは祖神として仰いだからだと思います。


■系譜
◎父は崇神天皇、母は遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマグワシヒメ)。
◎同母妹に豊鋤入姫命。異母兄に活目入彦五十狭茅尊、異母妹に渟名城入姫命(ヌナキイリヒメノミコト)。
◎御子は八綱田王、孫は彦狭島王、曾孫は御諸別王、曾曾孫は荒田別命。実際に東国へ赴いたのは彦狭島王、或いは御諸別王、荒田別命からとするのが有力。曾孫の御諸別王は「御諸」とあるように、「三輪山(御諸山)」と深く関わる可能性が高く、三輪の祭祀で知られる「子持ち勾玉」が東国でも見られるのは、これが理由であると考えられています。また関東に三輪神社が数社見られるのも同理由から。
◎後裔氏族として上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、大野朝臣、池田朝臣、住江朝臣、池原朝臣、車持公、垂水公、田辺史、佐自努公、佐代公、珍県主、登美首、茨木造、大網公、桑原公、川合公、垂水史など、「新撰姓氏録」には多数列挙されています。


■祀られる社(参拝済み社のみ)
仲神社(松阪市)

麻續神社(記事未作成)

佐味神社(長浜市余呉町)

※抜け落ちている社は見つけ次第追加します。