☆元正天皇 奈保山西陵


大和国添上郡
奈良市奈良阪町2648
(墓前道路に寄せて停め置きました)


「黒髪山」に築かれた第44代元正天皇の治定墓。
東隣には母の第43代元明天皇、南方1km余りには甥の第45代聖武天皇の治定墓が築かれています(ともに未参拝)。

どちらかというと無名の天皇の天皇ですが、実はこの天皇を抜きにしてこの時代は語れないと思うのです。

プロフや主な事績。
◎草壁皇子と元明天皇の間の御子。
◎元明天皇から元正天皇へと、女帝間で皇位継承された唯一の事例。
◎第42代文武天皇が若くして病死。残された首皇子(後の聖武天皇)がまだ幼く、皇統を維持したい文武天皇母の阿部皇女は中継ぎとして自ら即位し元明天皇に。老いると今度は元正天皇に譲位し、頑なに皇統を守ろうとした。これは持統天皇の時から続く女帝の執着心かと。

◎書紀が完成。
◎「養老律令」編纂を始める(完成は第47代淳仁天皇の御代)。
◎不比等が元明天皇以来重鎮として活躍するが、亡くなると長屋王を登用。
◎「三世一身の法」を制定。これが後に律令制度崩壊の源となる。
◎聖武天皇に譲位し上皇化し政務を補佐。聖武天皇が病気がちだったこともあり、実質政権を握っていた。

主なところは以上でしょうか。

神にしろ、天皇にしろ、人間味溢れるところを好む当ブログでは、元正天皇が一生独身のままであったことに関心が向きます。

Wikiでは「当時氷高皇女(元正天皇のこと)は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる」としています。

当時の18歳と言えば既に時遅し(婚期を逃した)…というくらい。どなたが書き込みなされたのか、「はっきりとした間違い」です。

この時代は専門外であり、残念ながら当方もこれに対する答えは持ち合わせていませんが。

既に出家済みだったのでしょうか?