(神社本庁出版物「御代替り」より)



◆天皇の間 
~1.宮中三殿~



「天皇の間」などという新しいテーマを起こし、自身の勉強を兼ねて綴っていきたいと思います。

今年は「御代替り」という特別な年ですし。おそらく私の生涯のうちで最後のものとなるでしょうし。

題名はもちろん鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」より。この世界に引き込まれるきっかけとなった名著中の名著。いずれ「神々の間」というテーマも起こしたりも…。





まず初回は「宮中三殿」を。


皇居の中核となる施設と考えて間違いないかと思います。
ここには「三種の神器」の一つである、「八咫鏡」のレプリカがあるため。本体はもちろん伊勢の神宮にあり、皇祖神である天照大神の御霊代。

第11代崇神天皇の御代以来、「宮中同殿」というわけにはいかなくなりました。
諡号名にもあるように、とにかく祟られ続けた天皇。しまいには日本滅亡危機の恐れを感じるほどにまで及びました。あらゆる策を講じて窮地脱出を図ります。「八咫鏡」を宮中から外部へ持ち出したのもその一つ。

冷静に考えるとこれはとんでもないこと。これを所持しているからこその「天皇」。それを放り出すなどというのはよっぽどの一大事でない限りはあり得ません。

そんなよっぽどの一大事が起きたのです。



(崇神天皇 山邉道勾岡上陵)



以下、紀より経緯を(大意)。

【即位五年】
国内に疫病が多く発生し人民の大半が死亡。
【即位六年】
百姓は流離、或いは背く者も。国が荒廃する勢いは凄まじく、天皇の「徳(うつくしび)」をもって治めることが難しくなった。天皇は神祇に祈り続けた。
これより先に、天照大神と倭大國魂の二神を天皇いる大殿内(宮中)で並祭していたが、神の勢いは強いため畏れ、共住に不安を感じた。
そこで豊鋤入姫命に託して、天照大神を「倭笠縫邑」に祭り、「磯堅城」(施設名のことか)に神籬を立てた。また渟名城入姫命に託して日本大國魂神を祭るも、髪が抜け落ち痩せ細り祭ることができなくなった。



(「倭笠縫邑」候補地の一つ、小夫天神社)



この後、豊鋤入姫命から倭姫命にバトンタッチされ天照大神の御霊は各地を遍歴して、最終的に伊勢の神宮に鎮まります。

天照大神の御霊代とは「八咫鏡」であり、つまり天照大神の御神体。本体は伊勢の神宮に鎮まっていることとされます。


(平原遺跡出土の内行花文鏡 直径46.5cm)
(これと同じ大きさ、形状のものと推察される)



これとは別に、その御神体を象って造られたとされるもの、いわゆる形代(レプリカ)が宮中に鎮まります。

日本で一番大事なものが外部へと持ち出されるという、危険極まりないことをしたわけですから、もう一枚用意しておかないと。
そして天皇自身も奉斎する必要があるかと思います。

現在はそれが「宮中三殿」の「賢所」(かしこどころ)に鎮まります。

皇居には「宮中三殿」や「宮殿」、「御所」、その他宮内庁庁舎などがあります。
「宮殿」は天皇の公的行事や政務の場。「正殿」や「豊明殿」、「長和殿」などがあり、国事行為や皇室行事などが行われます。この度の即位令が「正殿」で行われたのが記憶に新しいところ。「御所」は天皇の住居。





「賢所」は外陣・内陣・内内陣の三部屋からなるようです。内陣は天皇・皇后のみ入室可、内内陣は天照大神を祭る部屋とされます。



(橿原神宮 内拝殿、この奥に宮中三殿と同じ建物があり、祈祷などをして頂くと見られるようです)



その他、「神嘉殿」では新嘗祭で天皇が神々を招き祭祀を行ったり、「鎮魂の儀」が「綾綺殿」で行われたりしています。
もちろん「大嘗祭」は即位後初めての「新嘗祭」のこと。ここで祭祀が行われます。