☆允恭天皇 惠我長野北陵 (市野山古墳)


河内国志紀郡
大阪府藤井寺市国府1丁目
(拝所は訪れていないため不明)


第19代 允恭天皇の治定陵墓。
5世紀後半、全長228mの前方後円墳、二重の周濠を有し10基ほどの陪塚が現存しています。

允恭天皇は「倭の五王」のうち「倭王済」に比定されています。
第16代仁徳天皇の第4皇子。廃された次男の住吉仲皇子を除き、第1皇子は履中天皇に、第3皇子は反正天皇に即位しています。

母(仁徳天皇皇后)は葛城襲津彦の娘、磐之媛命。
皇后は忍坂大中姫。紀によるとこの妹が衣通姫、記によると允恭天皇の娘が衣通姫。皇太子である木梨軽皇子との記紀神話が有名(「衣通姫伝説」の記事参照)。
なお天皇自らも衣通姫との恋歌を交わしていますが。

元々病弱の身であったためか、42年もの御代に事績はほとんど記されていません。記に唯一「盟神探湯」を行ったとある程度。
これは乱れた氏姓制度を正すために、全氏族を飛鳥の甘樫丘に集結させて、占いにより決着させたもの。式内名神大社 甘樫坐神社境内の磐座前で行ったとされます。