荏名神社
(えなじんじゃ)


飛騨国大野郡
岐阜県高山市江名子町1290
(一の鳥居前にスペース有、下部写真参照)

■延喜式神名帳
荏名神社の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
高皇産靈神
荏名大神


高山市の郊外の丘陵上、「宮川」(下流は神通川)の支流である小さな「江名川」沿いに鎮座。かつては「江名川」と「塩谷川」が合流していたとあるものの、現在は「塩谷川」は見当たりません。「宮川」は日本のルーツとも言われる「位山」を源流とし、その流域にムラが発達し当然ながら主要社もほとんどがそこに鎮座。下流域の高志国との往来が頻繁にあったと思われます。
また社名の「荏」は「荏胡麻」のこと。栽培が盛んであったようです。
当社の創建創祀等は伝わっていないもよう。そもそも式内社 荏名神社は荒廃したのちに所在不明となっていたものを、江戸末期に田中大秀翁という国学者が当社を比定しています。当時、「稲置の森」と称された中に小祠「子安大明神」が鎮座。「荏名」を「胞衣(えな、=胎盤)」のことと解し、「子安」から「安産」を結び付けたのが比定に至る理由であると。江戸後期の「斐太後風土記」には「荏名は高山より行に、守屋と稲荷の社前を過て江名子に入る村の口なり」と記されます。また境内に座す巨石も比定の理由付けになったようです。
ご祭神についても不明。神名帳においては一座、荏名大神(社頭案内には「愛那能御神」と表記)というしかないでしょうか。高皇産靈神を宛てている根拠も不明。大屋都姫命とするのは「神名帳考証」、あるいは阿治須岐高日子根というものまで。また記の開化天皇の系譜に於いて、日子坐王の妃に山代之荏名津比売がみえます。その間に生まれているのが曙立王ら。出自は不明ですが、当社と関連があるのかもしれません。

※写真は2017年5月撮影のものです。





1台ならこういったふうに駐車可。

田中大秀が完成を喜んだという橋があるそうですが、こちらがその橋でしょうか。



こちらが式内社比定の根拠の一つとなった巨石。