生石神社
(おうしこじんじゃ)


播磨国印南郡
兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
(P有)

■旧社格
県社

■祭神
大穴牟遅命
少毘古那命


「石の宝殿」と称される推定約450t(500t以上とも)の巨石を御神体とする社。
人の手が加わった石造物。何かに使用する目的で切り出されて、運ぼうとしたものの、何らかの理由で断念されてこのまま神石として鎮まったとするのが定説。形状から石棺の蓋とするのが有力でしょうか。高さ5.7m幅6.4m奥行7.2m、前面は平らな長方形、裏面は下部写真のような出っ張りがあり、まさに昔のブラウン管の形状。また水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも。
近年もこの謎岩を解明するため、レーザーによる三次元計測などが行われているようですが、未だもって用途は謎のまま。
◎社伝では崇神天皇の御代に創建としています。疫病の流行に頭を悩ましていた天皇の夢に大名牟遅命と少毘古那命の二神が顕れ、祀るように神託があったというもの。
◎「播州石宝殿略縁起」という書には、神代に二神が出雲からやって来て石の宮殿を造ろうとしたが、「阿賀の神」(不明)の反乱を受け頓挫、横倒しのまま二神は鎮まったとあるようです。
また第13代成務天皇の御代に山形県酒田市に分社されたと(未参拝)。
◎「播磨国風土記」には、「作り石」があり「伝承では聖徳王(聖徳太子)の時代に弓削連(物部守屋)が作った石とされている」とあります。聖徳太子が摂政となり政治を行っていた時期には、既に物部守屋はこの世にいません。「物部守屋が作った」というのは正しく、「聖徳太子の時代」というのはだいたいその頃という意味であると考えられないこともありませんが。
◎万葉集には、生石村主真人(オイシノスグリノマヒト)の作として「大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経」という歌が載せられています。これは「大汝(オオナムチ)と少彦名のいましけむ 志都の石室(しつのいわや)は 幾代にけむ」との意。天平十年(739年)に「美濃少目」の官位に任ぜられたとされる生石村主真人。この「志都の石室」を巡ってはいくつか候補地がありますが、当地が最有力でしょうか。
◎付近は凝灰岩が露出する山々。加工のしやすさから古代より採石が行われていたらしく、姫路城も当地から切り出しているとか。
巨石の形状から、古墳の石棺の蓋ではないかと思われますが…。

※写真は2016年1月撮影のものです。









「分岩」とされていますが、明らかに別物。個人的にはこちらの「霊石」の方が気になります。

このようにあちらこちらで、切り出された山々が見られます。