☆安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵
(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)



大和国高市郡
奈良県橿原市吉田町
(P有るものの閉鎖され使用不可、すぐ北側に車1台分だけ道が広く空いたスペース有)



第3代安寧天皇の御陵に治定される墳墓。
もちろん欠史八代の一天皇。

「畝傍山西南…」とあることから
当時(記紀編纂時)はおそらくこの辺りと考えられていたのであろうと思います。

「御陰井」は南東150mほどの丘陵に鎮座する安寧天皇神社の境内にある、「御陰井」という井戸(現地未確認)が由来とか。

案外、こちらが御陵ではないかと思ったりもしています。ただし、当地はかつて「アネイ山」と称されていたらしく、やはり治定は間違っていないのでしょうか。

記紀にはもちろん事績などは記されていません。

父はもちろん綏靖天皇ですが、
母は紀では五十鈴依媛命(事代主神の娘)、記では河俣毘売と異なります。
五十鈴依媛命は鴨系、河俣毘売は磯城(師木)県主系。

同じ高市郡に式内大社 高市御縣坐鴨事代主神社(河俣神社に比定)が鎮座しており、事代主神を祀るとされています。また式内大社 川俣神社(木葉神社に比定)も。異なる氏族ながら関連が考えられます。

皇后は紀では渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)、記では阿久斗比売命とこちらも異なります。

渟名底仲媛命との間には懿徳天皇の他に、磯城津彦命が生まれています。

また紀の第1の一書には川津媛命(磯城県主系)、第2の一書には糸井媛と記されます。

傍観するに鴨系と磯城系が合体したということなのかも。磯城県主は早くに没落分解しており、謎だらけ。これだけで一冊の本を書けそうですが。