飯役社
(いいやくのやしろ)


丹後国与謝郡
京都府宮津市中野217
(P有)

■祭神
御食津命


籠神社の一の鳥居より西方500mほど、「阿蘇海」(天橋立の西側の内海)に面して鎮座する社。
◎「飯役社」は元々は「印鑰社(いんやくのやしろ)」のことであったとされます。当地の辺りは丹後国の国府があったとされる地。その国衙(役所)の「印」と「鑰(カギ)」が収納され、それをもって在庁官人の守護神として祀られたのが「印鑰社」。国府はずっと当地であったのかどうか、また正確な所在地は今のところ分かっていません。籠神社のすぐ側でもあり、当地周辺にあったとするのは妥当なところでしょうか。「府中」といった地名が残っていることもその証。
◎ここまでは当社の一般的な紹介。ところが籠神社の先代宮司は当社についてまったく異なる由緒を挙げています。元々は「吹井社(ふけいのやしろ)」であったとし、当社は吹井社と印鑰社とが合祀されてできた社であると。
◎これは古代丹後国を探る上で甚だ貴重なもの。この吹井社(「ふけい」はいろいろな漢字が宛てられています)は、「うけい(誓約)」からの転訛であるとしています。これについては実証できる資料が欠乏していますが。
天橋立のある若狭湾のうち、この周辺辺りを「阿蘇浦(阿蘇湾)」と呼んでいますが、かつては「吹飯浦」であったとか。和泉国日根郡の海に「深日(ふけ)」と呼ばれる地があり、関連がありそうにも思います。
◎その吹井社について、豊宇賀能咩神が「比治の真奈井原」より通って与佐宮大神へ御饗を奉った跡であるため「飯役大明神」と称されるとしています。いわゆる「飯盛」の跡地であると。
ここでいう「比治の真奈井原」は丹波郡の現在の峰山町辺りのことかと思います。つまり比沼麻奈爲神社あるいは藤社神社の辺り。
◎さらに社家相伝の秘伝として、眞名井神社を「奥宮真名井原」、当社を「御饌殿真名井原」と称していたとしています。
現在はひっそり佇む小さな社ですが、丹後の原初に迫る秘められた社です。

※写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。