氣比神宮


越前国敦賀郡
福井県敦賀市曙町11-68
(P有、大鳥居の反対側である東側が進入口)

■延喜式神名帳
氣比神社 七座 並名神大 の比定社
(境内社 角鹿神社 大神下前神社 天利剣神社 天比女若江御子神社 伊佐奈彦神社の5社を含む)

■社格等
越前国一宮
[旧社格] 官弊大社
[現社格] 別表神社

■祭神
伊奢沙別命(イザサワケノミコト)
仲哀天皇 神功皇后
[四社の宮] (東殿宮)日本武尊 (総社宮)応神天皇 (平殿宮)玉姫命 (西殿宮)武内宿禰命


上記の通り悉く最上位に近い社格等を有する屈指の大社。北陸道総鎮守社でもありました。そして多くの謎に包まれた、興味の尽きない神社でもあります。
◎主祭神の伊奢沙別命(イザサワケノミコト)を巡り、どの神のことなのか複数の説が出されており、定まらないのが現状。記紀ともにわずかな登場しかせず、しかも太子(応神天皇)と名前を交換したなどという不可解な記述。当社特有の神であるために、当社縁起(氣比神宮記)ぐらいが情報源で、他社から得ることもほとんどありません。
◎創祀創建については、伊奢沙別神がまず当社から北東500mほどにある「天筒山(てづつやま)」に降臨、そして麓の「土公」に鎮まったのを始まりとしています。この「土公」を神籬として祭祀していたとされています。八角形の石組みで囲まれ、中央の巨樹が1本。境外の小学校の校庭にあります。神聖な不可侵地とされているようで詳細は不明、塚や古墳説も。境内に拝所が設けられています。
◎紀の垂仁天皇の条には、「額に角の生えた意富加羅国(おおからのくに)の王子 都怒賀阿羅斯等(ツヌガアラシト)またの名 于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)が、穴門、出雲を経て笥飯(けひ)の浦に到着し角鹿(つぬが)と名付けた」とあります。
この都怒賀阿羅斯等は、「白石」から化した美女を追って来たとあります。これは「赤玉」から化した美女を追って来た天之日矛神とあまりに内容が類似、都怒賀阿羅斯等と天之日矛神とが同神であるとする説が有力。
◎記紀には仲哀天皇が「角鹿」に行宮として「笥飯宮(けひのみや)」を営んだとあります。
そして「氣比宮社記」には、仲哀天皇の御代に神功皇后が三韓征伐に向かう前に必勝祈願をすると、「海神を祀るように」との神託。皇后は穴門に向かう途中で「干珠・満珠」を得て、安曇連に祀らせたのを創建としています。
当社祭祀を担っていたのは角鹿氏。角鹿国造とも考えられ、海人族です。
◎三韓征伐が完了し皇后は凱旋。途中に仲哀天皇の謎の死と誉田別命(応神天皇)の出生があります。応神天皇は武内宿禰に連れられ「禊のため」に氣比大神のもとへ。
ここで氣比大神と応神天皇との、謎の名前の交換説話が記紀に記されています。
太子の夢に伊奢沙別神が現れ、名前の交換をするようにとのお告げ。太子が承諾すると翌朝に氣比の浦には大量の入鹿(イルカ)が打ち上げられていました。太子は伊奢沙別神を「御食津大神」と称え、氣比大神となったとあります。
「氣比宮社記」には保食神とも記されています。
◎この名前の交換説話について「名と魚(な)の交換」であるという説も。つまり「名の下賜」と「魚(御食)の献上」、服属儀礼であるというもの。
◎当社の奥宮として常宮神社が考えられています。常宮神社側は当社の奥宮であるとするものの、当社側はきっぱりと否定。過去に当社の境外摂社であった時代もあります。
◎海人族、新羅、干珠・満珠など、若狭国に鎮座する若狭彦神社と共通するものが多くあり、関連するのではないかと考えています。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。





式内社他がずらり。

猿田彦神社

角鹿神社

「土公」と「天筒山」。直前の大型台風でご神木が倒れていました。

こちらが「土公」。

以下2枚は「氣比の松原」。